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13・67|香港が舞台の推理派と社会派の融合

以前、香港に行くなら読みたい本を紹介しました。そのときには読めていなかったのですが、駐在前からずっと読みたかった本がありました。陳浩基氏の『13・67』です。帰国してようやく読了しましたので、ここでご紹介したいと思います。

*表紙画像はブクログ通信から引用。台湾版と香港版書影。

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1.作品のあらすじ

Amazonの紹介では、以下の通り記載されています。

華文(中国語)ミステリーの到達点を示す記念碑的傑作が、ついに日本上陸!
現在(2013年)から1967年へ、1人の名刑事の警察人生を遡りながら、香港社会の変化(アイデンティティ、生活・風景、警察=権力)をたどる逆年代記(リバース・クロノロジー)形式の本格ミステリー。どの作品も結末に意外性があり、犯人との論戦やアクションもスピーディで迫力満点。
本格ミステリーとしても傑作だが、雨傘革命(14年)を経た今、67年の左派勢力(中国側)による反英暴動から中国返還など、香港社会の節目ごとに物語を配する構成により、市民と権力のあいだで揺れ動く香港警察のアイデンティティを問う社会派ミステリーとしても読み応え十分。
2015年の台北国際ブックフェア大賞など複数の文学賞を受賞。世界12カ国から翻訳オファーを受け、各国で刊行中。映画化権はウォン・カーウァイが取得した。著者は第2回島田荘司推理小説賞を受賞。本書は島田荘司賞受賞第1作でもある。
【目次】
1. 黑與白之間的真實 (黒と白のあいだの真実)
2. 囚徒道義 (任侠のジレンマ)
3. 最長的一日 The Longest Day (クワンのいちばん長い日)
4. 泰美斯的天秤 The Balance of Themis (テミスの天秤)
5. Borrowed Place (借りた場所に)
6. Borrowed Time (借りた時間に)

ネタバレにならない範囲で各話を紹介してみます。主な登場人物は、卓越した推理能力を持つ香港警察の上級警視クワンとその弟子ローです。読者は、時代を遡りながら、クワンの活躍と成長の軌跡を追って行くことになります。

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(1)黒と白のあいだの真実

2013年、一大財閥の総帥が殺害された。探偵役のクワンは末期癌によって昏睡状態にあり、ローは特殊な機器でクワンと意思疎通を図りながら、事件の真相を明かして行く、というもの。

著者あとがきによると、もともと単体で、「YesとNoしか言えない安楽椅子探偵」を着想したようです。分量が多くなったため、連作に変更したとのこと。独創的な着想はもちろん、ローが犯人を追い詰める戦略は予想外です。師匠クワンの教え(正義を貫いて真実を明らかにする)はローに、確実に引き継がれたと思います。

2013年は雨傘革命の前年で、第3代行政長官選挙の翌年でした。政治的対立や市民の抗議デモに向き合う警察官の苦悩が物語の背景に、静かに描かれています。

(2)任侠のジレンマ

2003年、香港マフィアの諍いが起こる。ゲーム理論「囚人のジレンマ」(相手に裏切られると疑い始めたら、それより先に相手を裏切ることを選択するしかない)によって、バランスを崩していく手法は見事。ローは、クワンの釈迦の掌の上で踊らされていたが、それはローへの信頼の裏返しでもあったといえる。

2003年は、域内で300名近い死者を出したSARS(重症急性呼吸器症候群)流行、治安条例に反対する50万人デモ、中国との自由貿易協定CEPA(経済貿易緊密化協定)の締結の年でした。

(3)クワンのいちばん長い日

1997年、クワンの退職の日に事件が起こる。無差別の硫酸爆弾事件と凶悪犯の脱獄、一見無関係な2つの事件、クワンはどう解決していくのか。クワンはこの凶悪犯の逮捕に過去関わっており、その因縁も描かれる。

1997年は大転換期、香港返還の年です。返還後、皇家香港警察は、香港警察へと生まれ変わる、警察章が戴いていた王冠は、香港を象徴する花、バウヒニアに取って代わられる、と淡々と書かれています。なお、鳥インフルエンザとアジア通貨危機が起こった年でもありました。

(4)テミスの天秤

1989年、雑居ビルに潜伏する凶悪犯を確保する作戦が立案される。緊急事態が発生して、凶悪犯との銃撃に発展、一般市民に多数の犠牲者が出てしまう。しかし、その裏にはある陰謀があった…

立法会(現在の香港終審法院)の正面中央の屋根には、ギリシャの正義の女神テミスが置かれており、手に持つ天秤は公正な裁判を、剣は無上の権力(=警察)を表している。テミスに照らして、警察の仕事は、罪を裁くことではない、真実を明らかにして正義を貫きたい、というクワンの葛藤が最後に描かれる。

1989年は、中国への返還が決まった後(1984年英中共同声明、1990年香港基本法制定)の社会的不安と移民ブームの中、天安門事件が発生した年でした。警察上層部(イギリス人上司)との関係、確執も物語に絡んできます。

(5)借りた場所に

1977年、香港廉政公署調査主任(イギリス人)の一人息子が誘拐され、身代金が要求される。廉政公署は、汚職捜査を担っており、警察官の収賄に対して起訴も行なっていた。警察との関係が芳しくない中、調査主任は結局助けを求める判断をして、事件は若き日のクワンが担当することになり…

狡猾な犯人とのやりとりは面白いです。犯人の目的は?最終的にクワンは正義をどう通すのか?ミステリとしてもかなり興味深かったです。

また、本話は、イギリス人から見た香港に触れることができます。「植民者はどんどん現地人化し、被植民者はどんどん西洋化していく」「租借の期限が1997年に切れる香港はまるで借りた場所、他人の土地に出稼ぎに来ているようなものだ」などの表現が出てきます。作者は香港人ですが、イギリス人の思考を客観的に理解していると思いました。

1977年は、警察の汚職が大きな問題となり、警察官による廉政公署(1974年設立)に対するデモが発生した年でした。本話から、社会情勢と密接に関連するストーリー展開となっていきます。

(6)借りた時間に

1967年、香港は反英暴動の嵐が吹き荒れていた。偶然掴んだ爆弾テロの情報を頼りに、阻止に向けて奔走するという話。本話は、実は2013年の第1話と繋がっていて…

最後の頁で謎が全て明らかになり、46年という時間が登場人物をどう変えたのか、その背景には何があったか、読者は余韻に浸ることになるでしょう。

1967年は中国の文化大革命発動の翌年です。折しも私が駐在していた2019年と共通したきな臭さがあり、イギリス植民政府の独裁主義に対する左派のデモ、警察による鎮圧、ゼネスト、授業のボイコット、夜間外出禁止令の発令などがあったようです。

本話には、「あなたが守りたいのは警察の看板なのか?それとも市民の安全なのか?あなたが忠誠を尽くすのはイギリス植民地政府なのか、それとも香港市民なのか?あなたはどうして、警察官になったのか?」というセリフが出てきます。6話全ての根底にあるテーマ「正義とは」そのものに関わるセリフだと思います。

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2.作品のレビュー記事など

本作は、2018年に海外小説部門でブクログ大賞を受賞しています。本受賞でこの作品を知った方も多いのではないでしょうか。

受賞を受けて、作者の陳浩基氏にブクログがインタビューをしています。小説家を志したきっかけ、日本の好きな作家・作品などが紹介されています。

また、本作誕生の契機も触れられており、陳氏は人の生き様、その人が生きている社会と時代を描くことで、読者に対して、他者との差異の認識、共感、紛争の回避を促したかったようです。イギリスや中国本土との関係性に揺れる香港ならではのテーマですが、グローバルな社会に生きる私たちの立場で読み替えても気づかされることが多いと思います。

陳氏は綿密な現場取材を重視するようです。特に5・6話は実際の事件との関わりが強くなっています。確かに、タイトル「借りた場所に」「借りた時間に」は、社会派の要素が大きくなっていることを表していますね。

最後に、本作の続編?の構想や他の作品の邦訳の可能性についても触れられています。本作は面白かったので、今後の作品展開が気になりますね。『網内人』という作品が海外では人気で、日本での翻訳出版も予定されているとのこと。ハッカーとネット・テクノロジーが物語の軸となっており、物語のヒロインが妹を自殺に追いやった原因を突き止めようとする――それを写実的な筆致で描いたミステリ、らしいです。出版されたら読んでみたいですね。

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なお、本作は社会派なのですが、香港返還の部分は淡々と書かれています。意識的にそうしたという陳氏、その理由は次の記事に紹介されています。

「クワンの選択から香港人の心理と気持ちを描こうとしたのです。クワンは本来、すでに警察からの引退を決めていたのですが、トップが彼に顧問として残留を求めます。すべてにおいて決断の素早いクワンでもこのときだけは迷ってしまいます。私は、彼の迷いと決断を通して、香港人の主権の交代に関する心理矛盾を描こうとしました。香港に止まるか、あるいは移民するか。最後にクワンは警察にとどまることを選びます。これは多くの香港人の1997年の心理を象徴したものです。未来に希望をたくし、この香港という故郷から離れなかったのです」

この部分は、香港人しか完全にはわからない部分なのかな、と思いますが、登場人物の心理と返還をめぐる逡巡を重ね合わせるという技巧が興味深かったです。

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他、次のような感想記事もありました。

本ブログの作者同様、翻訳者の天野健太郎氏の訳が素晴らしかったと思い、少し調べてみました。日本人が読んでも大変わかりやすく、読みやすく訳されていました。

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3.翻訳者について

翻訳者の天野健太郎氏による、『13・67』の紹介記事、ヒットの理由を語る記事を見つけました。紹介記事では、作者陳氏の意図について、

彼が六つのストーリーを重ねて浮かび上がらせようとしたのは、常に外的要因によって揺れる香港人のアイデンティティであり、「正義」という権力を行使することへの惑いです。それを2014年の「雨傘革命」が起きる前に、エンタメ小説の形で世に問うた著者の先見性と胆力には敬意しかありません。

とあります。「アイデンティティ」「正義とは」が共通テーマと見抜いた天野氏、邦訳でもこのテーマが根底に置かれており、読者にもとてもわかりやすく伝わってきたと思います。紹介記事は以下の通りです。

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本作のヒットの理由、面白さについては、以下のように述べられています。

この小説の楽しさは、ストーリーを(犯人を)追っているうちに、まるで香港の街を歩いているかのように、風景が眼前に広がってくることだ(香港を訪れたことがない人でも)。
緊迫するストーリー展開のなか、ちょいちょい香港飯が登場するところはさすが美食の都の作家である。第六話の風景はまるでセピア色に見えるが、主人公が捜査で立ち寄った飲茶楼だけは蒸籠の湯気と活気に満ちて、読んだ人はいてもたってもいられなくなるだろう。
世界で広く受け入れられている理由として、著者が非常にローカルな風景と歴史を背景にしながら、「正義」という普遍的なテーマを描いていることも挙げられるだろう。自分は台湾人作家の作品を訳すことが多いが、彼らはみな実直にテーマのために(言い換えれば、社会を変革するために)小説に書く。陳浩基もまた、エンタメ小説として極上の構成力を発揮してなお、てらいなく「正義」を訴える。

私も、街の雰囲気、香港飯の美味しさが伝わってきて、駐在生活が懐かしくなりました。また、登場人物のセリフやストーリー構成において、正義というテーマがストレートに表現されていて、読んでいて気持ちよかったです。ヒットの理由を語る記事はこちら。

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そんな天野氏ですが、2018年11月に亡くなっておられたようです。天野氏の翻訳は読みやすく、他の翻訳作品も読んでみたくなっていたので、大変残念です。天野氏の功績を称える追悼記事をいくつか見つけましたので、列挙しておきます。

本作を皮切りに、華文小説に興味が湧いてきたので、天野氏の他の翻訳作品を含めて色々手を出してみたいと思います。なお、台湾カルチャーに関する天野氏の対談記事もあります。

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4.さいごに

さいごに、私の感想を簡単に書いておきます。本作の面白さは、①香港という街のリアルな再現、②高度なストーリー構成、③社会課題の提起だと思いました。

(1)香港という街のリアルな再現

懐かしい地名や香港飯がよく登場します。駐在時代に行った場所、食べた物を思い出しながら読めました。香港に行ったことがある方は、当時を懐かしながら読めることでしょう。実際にある建物、フェリー、通りなどが登場するので、読後に舞台となった場所を巡っても面白いはずです。コロナが落ち着いて香港に行けるようになったら、私も回ってみたいです。

(2)高度なストーリー構成

逆年代記(リバース・クロノロジー)という構成が見事で、また選ばれている年代も香港にとって絶妙だと思います。香港社会の50年の変遷を読み解くことができるでしょう。

ミステリの仕掛けも相当手が込んでおり、初読では気づかない伏線がたくさんあります。犯人の裏の裏をかいていくなど、本当にここまで深読みできるのか!?とも思いますが、訳がわかりやすいので、私はスムーズに読めました。

(3)社会課題の提起

本作あとがきでも言及されている「本格ミステリと社会派の融合」は最大の特徴だと思います。陳氏は、ブクログのインタビューで次のように語っています。

各ストーリーのあらすじとディテールを詰めていくなかで、当時の社会描写を欠かすことはできないと判ってきたんです。そこで、「作家として自分は、当時の社会をこれらのストーリーの中に落とし込む責任がある」――という自分の内なる声を聞いたように思います。

「香港人のアイデンティティ」「正義とは」を各年代の社会情勢と照らし合わせながら、具に書き込んでいったのが本作でした。香港で暮らしてデモと身近に接していたことも影響しているかもしれませんが、私は「社会派」の記述に特に注目しながら読みました。

1967年の英国関係での社会変動、アイデンティティの揺らぎは、現在の中国本土との関係でも共通する部分があります。(もちろん違う部分も色々あって、そこは香港人しかわからないかもしれないのですが、興味はあります)2019年および2020年は、香港の歴史で間違いなく転機であり、逆年代記を書くなら、取り上げられる年だと思います。

2019年は、「警察の正義」についても、香港人は考えることが多かった年でしょう。デモ隊に対しての暴力が批判される記事がよく見られました。「黒警」と呼ばれることもありました。ただ、当時香港で生活していて個人的に感じたのは、デモ隊と警察のどちらが悪いという2元論ではないということであり、クワンやローのように、警察も警察なりに悩んでいた方が多かったのではないかと思います。

デモ隊から動いて警察を挑発したりなどもありました。結局は、香港内部での断裂が生まれてしまったと感じており、私はそこが一番辛いところだと思いました。アイデンティティの断裂、正義の断裂も、社会派的には重要なテーマだと考えており、今後、これを取り上げた小説も出てくるかもしれませんね。

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本作が取り上げた「アイデンティティ」「正義」は、今の日本ではあまり意識する機会が多くないかもしれませんが、世界で見れば、日々問われているテーマだと思います。華文小説の面白さを知ったので、今後も他作品を読んでみたいですね。

本作の感想にお付き合いいただき、ありがとうございました。未読の方には、本作はオススメしたいです!

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P.S. 帰国して早半年が過ぎようとしています。駐在経験をどう活かしていくかなど、日々考えていますが、そちらについても、また時間が取れれば記事にしたいと思います。

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