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山谷(Sanya)とドヤ(Doya)

はじめに〜山谷との出会い〜

僕が山谷を知ったのは大学時代だった。

あの頃僕は写真部のメンバーとして、作品の持つリアリティを写真という媒体を通して世間に発表したいと考えていた。

2つ年上の先輩が「廃墟」をテーマにした写真で青山で展示会を開催した姿を見て

自分自身、何かインパクトがある写真を撮れないかと考えていた。

たまたまYoutubeで「山谷を散策してみた。」という動画を観て、直感的に山谷に取材に行くことを決めた。

僕が初めて山谷を訪れたのは、大学2回生の夏だった。

地方の大学から山谷に通うのは少しハードルは高かったが、いざ現地に行ってみれば、不思議な魅力に取り憑かれた。

その後、僕は山谷に関する調査やレポートを数多く書くことになったが、

この記事はその集大成といっても過言ではない。

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この3〜4年で収集した写真や情報などをまとめたので、論文の引用にするのも良いし、実際山谷に出歩く際に参考にしていただければ幸いである。

第一章 山谷とは何か

(1)山谷について

山谷は東京・台東区にかつて存在した街である。

なぜかつて「存在した」と表記した理由は、60年代に「山谷」という名前が悪印象として日本に広まっていたため、行政によって山谷という名前は正式に廃止された。

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今では清川・東浅草・日本堤(にほんづつみ)と呼ばれている。

しかし、山谷という名前はドヤ街の象徴として強く残り続けている。


(2)ドヤ街とは

ドヤ街の「ドヤ」とは、名前の通り「宿(やど)」を逆さにして読んだ名称である。

元々、簡易宿泊所を指す言葉であり、山谷を代表とする日雇い労働者の街には決まってドヤがあった。

宿泊費は都内のホテルと比較するとかなり安い。

近年、外国人観光客や若者の間で安さを理由に人気であったが、新型コロナウイルスの影響により客足が遠のいているのが現状である。

しかし、ドヤは元々日雇い労働者やホームレス、生活保護受給者が住み込みで宿泊しているパターンが非常に多い。

それゆえ、ドヤにもよるが、観光客や一般人は宿泊不可能な場合も存在する。

値段も生活保護を受けている場合のみ、安くなる場合がある。

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(3)山谷の歴史

山谷は江戸時代には商人や職人が集う宿泊街として機能していた。

しかし、幕府により処刑された罪人の亡骸を始末する職業 の人々、いわゆる「被差別部落民」が山谷に住み込むようになり、この時期からこの地域における危険なイメージや偏見が根付いたとされる。

このパターンは山谷のみならず、大阪・ 西成でも見られる。山谷では明治・大正・昭和期には低所得者、在日コリアン、被差別民 が同和部落を形成したことにより、近辺住民から偏見や差別を受けることとなる。

第二次 世界大戦終了後、日本社会の工業化が一層進み、石炭から石油への需要変化、農業の衰退 により職を失った人々の為の「寄せ場」として山谷が機能することになる。

そして、東京における山谷という下町は都民にとってアンタッチャブルな空間=貧困層・被差別階級の 住居拠点となる。それゆえ、職を失った職人や労働者がホームレス化し、日雇い労働に依存するという構図が生み出されることになり、一層この地域におけるイメージの悪化が進むことになる。

現在でもドヤ街としての名残が非常に強く残っている。

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軒並み の宿は 2000 円代で利用できる店が多く、自動販売機の物価も都心の平均 130~160 円よりも安い、90~130 円台なっている。そして飲み屋が点在するのもこの街の大きな特徴で ある。

土田英雄『ドヤ街の比較研究』によると「単身男子の Homeless Men が多数生活 している安宿およびそれをとりまいて安酒場・めしや・古着屋・質屋さらに遊び場などが 密集している都市社会内部の一区画(近隣地区)を指す」(p.203)と述べられている。

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今では自治体のイメージの改善により「山谷」という地名は行政上、存在していない。 大阪・西成や横浜・寿町と並ぶ「三大ドヤ街」として認知されており、メディア等では住みたくない街・危険な街として紹介されることも少なくない。

山谷における日雇い労働者 の多くは高齢者の男性であり、街を観察すると工事現場に出向いている年齢層が 60 代から 70 代である。

私は山谷における貧困層の文化や生活、そして日雇い労働者 のバックグラウンドにおける傾向とは何かと興味を持った。はたして、本当に山谷は危険な地域であるのか。私が調査に訪れた際は危険を感じることはなかった上、住民が平和に 生活している姿を目撃した。

労働者が泊まるイメージの宿泊所には外国人観光客が多数宿泊しており、

「危ない街」という考え方は過去の事実であって、現在ではあくまでそれは 過去における偏見や差別が現代社会まで残骸として残り、いまだもまだその価値観が浸透し続けているのではないかと考える。

(4)日本のドヤ街


山谷は関東を代表するドヤ街であるが、このような形式の街は多数全国に存在する。 

神奈川県川崎市に存在する日進街は山谷・西成ほど有名ではないが、現代でも貧困に苦しむ人々が住んでいる。比較的山谷・西成と比較して有名ではなく、悪いイメージは高くは ないが、地元住民やディープスポットマニアの間では名前の知れた土地である。


同じく神奈川県横浜市に存在する寿町は日本屈指のドヤ街である山谷と比較して治安の 面も悪く、神奈川県伊勢佐木警察署の統計による令和 2 年 4 月末での事件発生データ によると窃盗事件が 23 件発生している。

もともとはアメリカ軍により接収されていた過去があり、その影響で簡易宿泊場が多く作られた。その影響もあり多くの日雇い労働者が 寿町に流れついた。山谷の場合、2010 年代以降高齢化に伴い日雇い労働者の数は減少した。しかし、寿町は現在でも暴力団の違法賭博や犯罪が多発しており、路上にホームレス が寝込んでいるなど現状は全く過去と変わらない。

現地を歩いた青年の証言によると、街の男と目を合わせたところ、恐喝されたとの報告がある。ホームレスも犯罪行為を行うな ど、町全体としての治安が悪い。山谷と比べて犯罪率が現代でも高いのは、暴力団による圧力の影響があるのではと考察できる。


大阪の西成地区は関西を代表するドヤ街であり、あいりん地区で闇市が開かれるなど寄せ場の負の側面が色濃く残っている。物価は非常に安く、ドラッグの発売や売春など法律 に背く行為が多数行われている。ホームレス同士のヒエラルキーがあり、生活保護受給者は下位に位置付けられる暗黙のルールがある。

(5)ヤクザVS山谷

1960 年代、山谷では警察署に対して日雇い労働者の暴動が発生した。

警官が酔った日雇い労働者に対して不適切な対応を行ったことにより、労働者が暴徒化し衝突した事件である。関係者からは「第一次衝突」と呼ばれている。

警察の目的は覚せい剤(ピロポン)に よる藥物中毒者の摘発が目的であった。その後警察は暴徒に対する襲撃に耐える構造の警察署(マンモス交番)を建設した。このタイプの建物は鉄筋コンクリートにより強化され ており、歌舞伎町など治安が悪い街で見られる構造である。

山谷と暴力団との関わりは深い。

「山谷争議団」はヤクザと日雇い労働者・ホームレス の上下関係を明確にした事件として名を知られている。1980 年代、暴力団が日雇い労働者 を騙したことにより左翼系結社「全国日雇労働者組合協議会山谷支部山谷争議団」が結成される。

この団体は暴力団との衝突を度々起こす。そして山谷の悲劇とも言える大事件が 起きる。

彼らの活動を取材しドキュメンタリー映画を撮影していた映画監督の佐藤満夫が 男により刺殺される。この事件をきっかけに争議団幹部が暴力団組員に暗殺されるなど山谷のイメージが低下するきっかけの一つの要因として今でも語り継がれている。

この事件 の全貌は映画「山谷‐やられたらやりかえせ」で映像として残っている。現在ではこの作品は社会運動の一環として上映されることがある。そして、現代における暴力団の活動は法律により規制され、かつてのように表に出ることは少なくなった。

しかし、彼らの組織 の一部には NPO 法人やボランティア団体と名乗り、寄付金を巻き上げる詐欺行為を行っ ている団体が近年社会問題となっている。その裏には暴力団や半グレと呼ばれる準指定暴力団がビジネスとして行っているとされる。現在の山谷において、暴力団との抗争やトラブルは発生していない。

暴力団を名乗る行為や堂々としのぎを行うことは社会的な死へとつながる。銀行口座を作れない、不動産を購入または賃貸できない等の規制が存在する。 

それはつまり、ヤクザと名乗る人々はこの社会において法に縛られながら生きていかなければならないのである。

それに従って、山谷における暴力団がらみの日雇い労働は減少しつつある。その一方で、労働基準法に触れるか触れないかのレベルで労働をさせる業者も誕生している。

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これまでヤクザが仕切っていた分、余計なことを行う一般住民と日雇い労働者は抑圧された。しかし、暴対法により消滅したヤクザによる暗黙の了解がなくなった今、資本家と労働者による資本主義的な搾取が平然と行われている。

第二章 山谷民の生活

(1)山谷のホームレス・日雇い労働者はどこから来たのか

山谷で路上生活するホームレスや生活困難者はもとから山谷に住んでいたわけではない。

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写真:玉姫公園〜ホームレスが家を作って住み込みをしている

彼らの多くが地方出身といったケースが多いとされる。

理由の一つとして、バブルの崩壊に伴い発生した不景気が挙げられる。バブル期の日本では求人が多く、多くの新卒、転職者が職に就くなど活気のある時期であった。

しかしバブル崩壊後、解雇や会社の倒産などに次ぐ不幸により、多くの雇用が失われるなど悲劇的な時代であった。その影響により、地方出身のサラリーマンの一部は経済的困難でホームレスにならざるをえなかった。

そして日雇い労働者の職数も減少し、お金がもらえずホームレス化するという現象も増加した。山友会公式ブログによると 1991 年における山谷地域における路上生活者の数はおよそ 1000 人以上であったとされる。

現代の山谷に生活している多くは地元住民であるが、ホームレス層は元ヤクザ、前科者、アルコール依存症など社会生活を営む上で非常に難しいとされ る人々が流れついて路上生活もしくは宿泊所生活を行っている。

(2)山谷ブルース


当時の山谷住民の生活は歌謡曲を通じて知ることができる。その例として、岡林信康 (1946~)が 968 年に発表した歌謡曲「山谷ブルース」である。

山谷ブルースでは当時の山谷におけるリアル な生活と日雇い労働者の心情が描かれている。


曲中、外部から見た山谷のイメージと山谷の内部の人間のイメージの対比が切ないブルースのメロディと共につづられている。岡林は日雇い労働者として山谷のドヤに生活していた経験がある。

歌詞中に

「人は山谷を悪く言うだけどおれ達 いなくなりゃ ビルも ビルも 道路も出来ゃしねえ 誰も解っちゃくれねえか」

と日雇い労働者の嘆きがつづられている。

高度経済成長期のインフラ整備を支えたの彼らであるが、世間では負け犬として差別の対象として扱われていた「ジレ ンマ」が存在していたことは紛れもない事実である。

これは資本主義社会において発生する問題の典型的なパターンである。

山谷においても高度経済成長期のおける日雇い労働者は奴隷のようであった。

彼らは故郷に帰ることが出来ず、ぼろぼろの宿に宿泊を余儀なくされる。そして働いても安い給料なので贅沢が焼酎ぐらいである。雇い主に不満を言うと、雇ってもらえない、暴力団とトラブルになる。

しかし、首都圏とした社会に出ると差別され結局山谷に戻るしかないと、まるで奴隷のような待遇であった。

現代では労働のまつわる法律が厳しくなった影響で、このような搾取は倫理的、法的にも不可能に近い。

日雇い労働に関しても行政や企業の参入によりある程度平和的になった。

(3)山谷民の収入源


山谷のホームレスは日雇い労働だけが収入源ではない。

山谷に住む人は市を開いて収入 を得ているというケースも存在する。

商品は主に中古の雑貨や機械、違法コピーのアダル トビデオなどがあげられる。平均的な値段は安価であり、300~600 円で売りだされている。

山谷でビジネスをするホームレス、路上生活者にとって必要最低限の収入ではあるが、サービスをする商人も存在する。

このビジネスの問題は、商品の出処が不明であるという点である。路上でマーケットを開いている人物は海賊版の無修正アダルト DVD を多く所持・発売している点から、裏社会とのつながりがあるのではないかと考察できる。

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写真:自転車を修理する男〜山谷の交通手段は自転車が多い。

(4)山谷のホームレスはなぜお金がないのか


山谷は居場所を失った人間、特に裏社会に身を置いていた人物や刑期を終えて出所した ものの定職に就けなかった高齢層の最終地点であるといえる。

山谷に住むホームレス・低所得者は最低限の生活を求めて日雇い労働に挑む。なぜ彼らは生活保護を受けることができないのか。

理由は元暴力団というレッテル=社会から疎外されたという意味である。暴対法で は暴力団員に所属するものはローンを組む、銀行口座を開設する、住居を借りることはできない。

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これは近年の法律ではあるが、元ヤクザというレッテルは金融機関にとってマイ ナスイメージである。よって暴対法が施行される前であっても金銭を借りることは不可能 に近いうえ、生活保護も同様に困難である。

前科者が社会に復帰することは決して容易なことではない。才能がある元暴力団員は書籍を執筆したり、特定非営利法人を設立して不良少年や引きこもりに対して支援活動を行ったりするという事例もあるが、実際にヤクザ になる人の多くはインテリではなく、暴走族や不良行為の延長でなってしまったケースが占めている。

それゆえ教育を受けていないので、社会活動は基本的に厳しいのである。 刑務所内で資格を取る人も多いが、社会からの扱いは冷たいので就職できないことが多い。そのような人たちはまた犯罪に走るか山谷のようなドヤ街で仕事をするとしか選択肢はない。

(5)現在の山谷付近


山谷近辺はホームレスにとって生活しやすい環境にある。

筆者が 2020 年 10 月 31 日に浅草近郊で取材を行った。浅草駅を降りて徒歩 3 分ほどで隅田川沿いに着く。浅草が人気の観光地であるのにかかわらず、 高齢の女性ホームレスが段ボールの切れ端を足場としてビニール袋にボロボロになっ た衣服を詰めていた。

彼女の服装は防寒性が良い羊毛素材の厚着であった。しかし、長年使用している影響もあって黄ばんだ汚れが目立っていた。片方で二人組の男性ホームレスが浅草駅の交差点付近で休憩していた。拾 ってきたであろう缶ゴミの数々と手にはスーパーで市販されている焼酎瓶に水を入れてい た。もう一人の男はいわゆる立ち小便をしており、人の目が多いこの場所であっても気に している様子ではなかった。彼らに共通している点は

第一に人の目を気にしていないとい う点である。長年の路上生活の影響もあってか、どんな汚い服装であれ段ボールハウスで あれ、彼らは気にしているそぶりはなかった。

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第二に拠点とする場所である。主に人通りや栄えている地域に段ボールハウスをひいて 生活している。理由として考えられるのは、人が多い分、食べ残しやボランティアのサポートが受けやすい。ときに観光客から食べ物をもらうことも可能である。そして公共のト イレや水道を公園で利用できるので、衛生面でも多少の清潔感は保つことが出来る。

山谷 においてもホームレスの多くは公園付近を拠点として生活しているケースが多い。公共の インフレーションや炊き出しなど安全面でも、人とのかかわりあいで生まれるコミュニケ ーションも公園で補給できるのである。

第三章 ホームレスの街・山谷

(1)見捨てられた人々

山谷では、ホームレスの問題が大きい。山谷で問題となっている現象は行政が行う社会保障をホームレスが受けることができないという問題である。

ホームレスは主に公園や路 上で生活を行っているため、住所が登録されていない。それゆえ、生活保護を受給させてもらえない、コロナ時に給付金が渡されない、医療が受けられない等の多くの課題が残されている。

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写真:炊き出しの様子〜近くでは政治団体がビラを配っていた

山谷のホームレスの多くは納税をしていない。よって、公共の福祉を受ける権 利はないと主張する人々も少なからず存在する。

これらの事実から山谷におけるホームレ スの扱いは冷ややかである。

かつて警察官が路上生活者との間でトラブルを起こしたのは、この差別が根本にあったのではないかという説が浮上した。

しかし、これらの問題を補う組織・団体が NPO 法人やボランティア団体である。

ホームレスも人間である。それ ゆえ基本的人権は保証されなければならない。ここには行政と社会的弱者との間に摩擦が 発生しており、適切な対応が難しいのは紛れも無い事実であり、社会問題である。

(2)海外のホームレス事情


資本主義社会において貧富の格差が生まれることは必然とされている。お金持ちや資本 家が労働者を雇うことによりサービスやモノが製造され、私たちの生活を相互に似なっている。しかし、海外の事情を観察すると、日本特に山谷のホームレスと外国のホームレス は背景が異なる。

まず、アメリカのホームレスについて述べる。

米国では雇用を失うこと が日常茶飯事である。そして、生活保障が日本と比較して著しく少ないことは有名であろう。アメリカでは退役軍人でさえホームレスになる。その背景には差別問題・偏見が絡ん であり、山谷のホームレスのように簡単に日雇い労働ができるわけではない。

さらにフィリピンでは、子どものホームレス、ストリートチルドレンが深刻な問題になっている。教 育や貧困、犯罪などが子どもたちの中で蔓延りかつ子ども同士での出産があり、貧困が貧 困を連鎖させる負のサークルに苦しんでいる。

中国では一人っ子政策の影響下によって産 まれた「闇子」が存在する。彼らは次男・次女が多く、政府からのペナルティーを親が逃れるため、存在を隠す。しかし、彼らは国籍上存在していない存在である為医療機関を受信できない、職に就けないなどの苦難を抱えている。そして放棄され彼らはギャング化する。


これらのホームレスから考察できる点は、彼らの多くが社会から目を背けられた人々である。

ホームレスは自分から進んで路上生活者になったわけではない。むしろ社会から都 合よく利用された結果、彼らは最終的に捨てられたのである。

日本・山谷におけるホームレス問題にも共通する。戦後の経済成長を支えた身でありながらも、日雇い労働者として低賃金で働かされ、雇い主である会社から必要なければ切り捨てられる。

アメリカではベトナム戦争に帰還して、国のために命を捧げ戦った男たちは帰国後、「英雄」として称えられると考えられた。しかし、帰国後待ち受けていたのは国民からのバッシング、偏見である。

その後まともな職に就けず、放浪者のように漂う。

映画『ランボー』では彼ら帰還兵の悲しき運命や怒りを戦士ランボーとして描いた。それはすなわち、日本における ホームレスと呼ばれた男たちも国のために血と汗を流した戦士であった。一方で、学歴至上主義やサラリーマン崇拝の影響でエリートや政治家の糧にされてしまった彼らの人生は決して保証されない。

第四章 ホームレスとボランティア

(1)ホームレスの現状

厚生労働省によるホームレスの総人数は東京都で 1,033 人である。(平成 31 年度版) しかし、この統計における問題点は目視でホームレスの人数を測っており、実際の東京都 におけるホームレスの数は多いと考察できる。 平成 15 年にはホームレスの自立の支援等に関する特別処置法が公布されており、行政によるホームレス対策が行われている。


一方で、このシステムには弱点が存在する。

行政が行う福祉には公平でなければならな いという決まりがある。それゆえ、一人でも不公平が応じた場合には活動が滞ってしまう という大きな問題が挙げられる。

その弱点を埋めることができるのがボランティアである。

ボランティア活動の場合、仮に不公平が応じた場合にも臨機応変に柔軟に対応することが可能である。例として、11 人のホームレスにおにぎりをそれぞれ分けるとしよう。個数が 10 個の場合には行政が運営しているサービスであれば配給できない。

しかし、ボランティアの場合では、優先順位をつけて配ることが可能である。山谷におけるボランティア団体が多数点在する理由の一つとしてこのスムーズな対応が必要とされている地域だからであろう。
ゆえに、ホームレス支援は山谷における大きな社会活動である。

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写真:寄付〜いらないものは提供してしまおう

(2)ボランティア団体とその活動

①Big Issue

Big Issue とはイギリスを発祥とするストリート新聞であり、ホ ームレス等の生活が困難な人々への社会復帰を目的とした企業である。

日本では 2009 年 に佐野章二によって活動が始まる。

Big Issue のシステムは 10 冊が発売用に無料支給さ れ、売り上げ 450 円のうち 230 円が発売者の収益となる。コンテンツはエンターテインメ ント、社会福祉であり、ハリウッドスターが表紙のポートレートとして使用されているケースが多い。


Big Issue はボランティアであるかとの議論が存在する。

厚生労働省によるボランティアの定義は

「一般的には「自発的な意志に基づき他人や 社会に貢献する行為

を指して ボランティア活動と言われており、活動の性格として、

「自主性(主体性)」、 「社会性 (連帯性)」、「無償性(無給性)」等があげられる」(「ボランティアについて」)

と述べて いる。 

Big Issue の活動は賛否両論があり、ホームレスを利用してビジネスを行っている と否定的な意見も存在する。

Big Issue は「ソーシャル・エンタープライズ」=社会的企業と位置付けられる。

このようなタイプの企業は主に社会貢献をビジネスの一環として行 っており、Big Issue はその先駆けとされている。

日本における Big Issue は首都圏では 新宿や上野、関西では大阪など比較的都会であり、人の出入りが激しい地域で行われてい ることが多い。

しかし、日本政府の政策によりホームレスがストリートに生活を行うこと は困難になりつつある。それに伴い、Big Issue を発売するホームレスは減少していると も捉えられる。

②ひとさじの会

ひとさじの会は 仏教系の NPO である。

ひとさじの会の公式ホームページによると、

浄土宗の僧侶が山谷 周辺の生活に困っていて食べられない人のために「ひとさじ」の重湯を差し出すボランテ ィア団体(任意団体)であり、光照院を拠点として活動しており代表者は吉水裕光(よしみずゆうこう)である。

活動内容は炊き出し、亡くなった方へのお祈り、修行等。山友会 やビッグイシュージャパンとの連携・サポートもあり、仏教の枠を超えた支援を行ってい ると述べている。

③山友会

山友会では無縁仏問題や医療問題に古くから取り組んでいる法人である。

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写真:山友会は現在、コロナウイルスの影響により診察が厳しいそうだ

山友会は 1984 年 10 月 17 日、肉体労働によりゲガをした健康保険証を持たない日雇い労働者 への無料診断場が発足のルーツである。

当時、山谷地区では日雇い労働者やホームレスが 独自のコミュニティを形成していたが故、労働者内のアルコールの摂取量が高まり体調に 異常を来たす問題が浮き彫りとなった。それゆえ、医療のニーズが高まり有志たちにより ボランティア診療が始まった。

活動を重ね 2002 年には NPO 法人として公認された。この法人の目的はホームレス問題の解決を目標として掲げており、現在は無料診断、無縁仏と なった人への供養、無料の炊き出し、「山谷・アート・プロジェクト」など多岐に渡る活動・ボランティアを行っている。

彼らの活動は医療・宗教・芸術など枠を超えて活動するなど勢いがあるボランティアである。

④山谷夜回りの会

山谷夜回りの会は夜における安全性の確保や食糧問題に取り組んでいる。

隔週木曜夜に山谷のホームレスのためにおにぎりを配る活動をしている。もともとはカトリック系のボランティア団体「山里の家」の活動がベースであった が、独立して行動することとなった。このボランティアは有志から石鹸・タオル、髭剃り など生活必需品を募集して配布している。

⑤きぼうのいえ

きぼうのいえはキリスト教系の団体であるが、仏教関係の僧侶も在籍しているユニークな組織である。

きぼうのいえは 2001 年に設立されたキリスト教系 NPO 法人であり教会としても活動 をしている。

スタッフは常勤 5 名、非常勤 6 名から形成されており、ボランティアは 11 名である。身寄りのないターミナル期の人が最期の時間を幸せに暮らせるために入居者の かたへのボランティア活動を提供する。

そしてこの団体の特徴はチャプレン 1 名と浄土宗の僧侶が協力している点である。なぜならこの法人の活動の一部である納骨式、クリスマ スなど宗教の垣根を超えた社会貢献を行っている。

⑥ふるさとの会

1990 年に設立されたボランティアであり、高齢者を対象とした貢献を行っている。この団体は多くの介護施設・自立施設を運営しており、株式会社ふるさとを経営するなど比較的大規模である。

主な活動内容は日曜日の炊き出し、相談、娯楽 提供など人の心に寄り添う支援が多く見られる。

ふるさとの会は「認知症になっても、がんになっても、障害があっても、家族やお金がなくても、地域で孤立せず最期まで暮らせるように」をスローガンに掲げている。

かつて 70 年代に日雇い労働をしていた層が高齢化により働くことが不可能になったことにより、ホームレス化する傾向が見られる。

ふるさとの会を筆頭にホームレス化した高齢者の救済目的とした NPO が山谷地域に増加して いる。直葬とは山谷ではホースレスなど身元引き取り人がいない無縁仏の為に合同葬儀を 行う葬儀の形式である。もうひとつの方法として通夜を行わないで火葬する直葬という様式がある。

遺骨は霊園に数年保存され、遺族が引き取らない場合は無縁墓に埋葬される。 そのような経緯から山谷における終活は支援されており、身寄りのない人が安心して最期を迎えられるような環境にある。


これらの活動は、宗教と関わっている場合が多い。主にカトリック系や浄土宗が母体と なるボランティア団体が多いとされる。なぜなら、教典に貧しいものへの救済が記述あり、その教えにルーツがあると考えられる。

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聖書「金持ちとラザロ」の話では富に執着した人は貧しきものや弱きものに対する憐れみの心を失うことが紹介されている。

仏教では 富に執着をしないことが基本的な生活様式である。六波羅蜜についても関連性があるとされる。

六波羅密とは布施人に施しを与えることであり、さらに三つの方法が存在する。財 施はお金、食糧の施しをあたえること。法施は釈迦の教えを説く、読経を行うこと。 無畏施は畏怖(いふ)という不安や恐怖を取り除くためのお布施である。山野における仏教 系ボランティア団体の多くがこの六波羅密をベースに活動しており、この活動そのものを 修行の一環と捉えている。

現代における仏教の考え方では経済社会によって人がお金や権力という欲に取り付かれている。それは仏教の教えに背く行為でもあるため、山野はある 種の俗世離れした空間とも考察できる。

(2)山谷と人を繋ぐ団体

①泪橋ホール

泪橋ホールはクラウドファウンディン グ「MOTION GALLERY」において設立された娯楽喫茶兼シアターである。

山谷の労働者から外国人観光客まで低価格で映画を楽しむことができることが特徴である。

このプロ ジェクトを設立・成功させた人物は写真家の多田裕美子である。

入場料は年金受給者、福祉関係者は 500 円、車椅子の付き添いは 300 円、その他は 800 円である。

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②山谷酒場

山谷酒場はクラウドファウンディングによって 2018 年に作られた 大衆酒場である。山谷酒という店主オリジナルのお酒を発明しており、薬草などを中心に ブレンドされている。この店の目的はかつて存在していた食堂や酒場の文化を若い世代に 知ってほしいとの店主の願いによって生み出された。背景として日雇い労働者の減少によ り、食堂や居酒屋の運営が困難となり衰退していった店舗が増え、消滅したという現状がある。

③さんやカフェ

さんやカフェでは思いやりコーヒーというシステムがある。コーヒーを貧 困の関係で飲むことが出来ない人のために、自分が代金を前払いし、その人の為に奢るシ ステムである。発祥はイタリアであり、このさんやカフェでは一杯につき 1 ポイントが貯まる。5 ポイント貯まるとドリンクが一杯無料で飲めるサービスを受けることができる。 


第五章 山谷とメディア

(1)山谷のイメージ

昭和を生きていた人の多くは山谷に関してネガティブな印象を瞬時に思い浮かべる人が 多数であると思われる。

対比的に主に 20 代から 30 代の現代人に山谷やドヤ街について聞 くと、わからない、知らないという答えが多い。

理由として若者は近代テクノロジーの普及により世界規模に視野が広まり、小さな地域には関心がなくなりつつある傾向がある。

 山谷はあくまで浅草と南千住の近辺にある小さな下町にすぎない。一方で、昭和時代を生 きていた世代にとって小さな町でさえ大きな意味があった。

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かつてドヤ街、部落と呼ばれ る場所は多く存在していた。しかし時代が経つにつれ、街という存在に意味を求める人はなくなりつつある。すなわち、時代は小規模でのミクロ的視点から下北沢や新宿、軽井沢 などその地域の代表的かつ経済的に大きな意味がある都市、街へとマクロ的な視点に変化したとも言える。


ノンフィクションライターの水谷竹秀のネット記事「ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつく った男たち」によると、昭和時代における山谷は「貧困」、「治安の悪さ」等のシンボルで あった。

それはすなわち、山谷における生活水準の低さは数々の犯罪行為を引き起こし、 その事件のインパクトが山谷のイメージを著しく低下させたといえるのではないだろうかと考えられる。

山谷という名前には人々にこれらのイメージを即座に連想させることが出来る力があった。しかし、ドヤ街や山谷という名前は時と共に忘れ去られてしまい、今では名前すら消されてしまった一つの地域と化してしまった。

このような動きに不可抗力として働いたのが、漫画や映画、小説といったフィクション作品である。作品は後世に残り続けるため、現代人でも気軽に情報を入手することが可能である。

 これらのメディアを通して山谷の存在を知った若者がインターネットで山谷に興味を持ち、訪れるという現象が山谷のいわゆる「ディープスポット化」を引き起こした。

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昭和世代にとっての山谷と平成世代の山谷は根本的にイメージが違うと考えられる。なぜなら、 山谷近郊における暴動や暴力団の抗争をリアルタイムで体験していた層とメディアのアー カイブを通して山谷を知った若者層では、山谷そのものに連想させられるイメージは大きく異なるであろう。つまり、このようなメディアを媒介して生み出されたアイコンとして の山谷はフィクションにおけるネバーランド的役割―人々のイメージによって作り出された街とも言える。


(2)山谷を舞台にしたフィクション

①あしたのジョー

ちばてつやによる人気漫画『あしたのジョー』(1968~1973) は山谷を舞台としていることで知られており、現地には矢吹丈と いった登場人物の石像が多数設置してある。

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『あしたのジョー』は冒頭、戦後復興しつつある東京の都市部 をバックに主人公である矢吹丈が荒廃とした下町の山谷に向かっ ていく場面から始まる。道中、流れ者である丈に対して住民は彼 に対して冷たいあしらいをするが、丈は持ち前の運動神経の良さ で子どもたちが仕掛けたいたずらの罠を回避する。その後飲んだ くれと化していた丹下段平に喧嘩を絡まれ、丈は彼を叩きのめす。更に暴力団に絡まれていた少女を守った姿を丹下が目撃したことにより、ボクシング を進められる。その一方丈は文無しのごとく宿を次々と探し回っており、金銭がないこと から宿主から追い出されていた。

それら描写からわかるように、山谷は浮浪者が最終的に 行き着く場でありながら、同時に貧しい住民がよそ者に対して排他的であることが伺える。日雇い労働者の多くが文無し、元やくざ者、元受刑者など社会 からはじかれるような存在であり、居場所がないのも同然の状況にある。しかし、彼らはコミュニティを生み出し情報共有や縁談を仲間と行うなど、決して孤立しているわけではなかった。丹下は過去 に山谷のホームレスと酒を飲んでいたとされる。

彼らにとって酒は唯一の娯楽であり、同時に麻薬のように彼らの自立を邪魔していたと考えられる。 

②孤独のグルメ

ドラマ等のメディア進出で人気を得た久住昌之原作、谷口ジロー作画による漫画『孤独のグルメ』(1994~)の第一話では山谷の商店 街にぽつりと存在する定食屋が登場する。

主人公である井之頭五郎は大衆食堂「きぬ川」 で生姜焼き定食を注文する。モデルとなった店は実際に 2017 年まで経営している。

③最果ての街


小説家の西村健は大学卒業後、労働相(現在の厚生労働省)に勤務していた。公務員時 代の彼は研修として山谷地区の職安を紹介してもらった。彼は山谷の現状を見て衝撃を受 けた。路上に寝込む労働者、労働出張場での行列など西村にとってショッキングな出来事 であった。その後彼は小説家となり、山谷に通いつめる。編集部からの提案もあり『最果 ての街』を 2017 年に発表した。ストーリーは山谷地区を舞台に主人公である山谷労働出張所所長・深恒宣泰がホームレス殺害事件に巻き込まれるミステリー作品である。 

(3)ドキュメンタリーと山谷

The Guardian による“The Tokyo Neighborhood Where Come to Disappear”(2019 年 6 月 14 日)の記事によると、山野の住民に対して取材をしており、現在のリアルな山谷民の生活様式を説明している。

昼間から公園でお酒を飲みながら将棋を指す老人や「さんやカフェ」の運営者、山谷における歴史の概要など事細かに文体にしており、海外メデ ィアから見た山谷と日本人から見た山谷では印象が全く異なると推測できる。例として多 くの海外メディアは差別に対して扱っている。

しかし、日本の記事では差別に触れることを避ける傾向にある。なぜなら、日本人の多くは山谷の過去にフォーカスを向け、ホーム レス当事者はあくまでもプライバシーの観点から深く掘り下げない傾向がある。

海外では 現状をどう打開するか、解決するかに重きを置いてある。このノンフィクションの取材に は西洋人の性質が大きく関係している。日本人は過去を反省する性質があるが、西洋人は 現在をどう変えるかと考える。

これらの記事には、民族特有の思想や思考の違いが表れて いるとも言えるだろう。

(4)映画「山谷‐やられたらやりかえせ」

映画「山谷‐やられたらやりかえせ」(1985)で描かれた山谷はリアルである。

http://www.anerkhot.net/yama_jyoeii/

この作品は暴力団と左翼系組織「全国日雇労働者組合協議会山谷支部山谷争議団」との抗争を撮 影したドキュメンタリー映画である。

監督は抗争に巻き込まれたことにより死亡、同胞により完成させた問題作である。

左翼系団体の活動で上映されることが多いこの作品は、 1960 年代の学生運動に続いてプロレタリア活動の象徴とも言える。

1960 年代はインテリ層とその真逆の位置する底辺層が労働者解放運動を行った時代であったともとらえること が出来る。その背景には資本主義経済に対する不満や、冷戦における東西勢力の対立、反 戦活動家の活躍など社会情勢・国際情勢が不安定であった影響もあり、日本国内でも活動 が盛んであった。

この作品はビデオ化されておらず、入手が非常に困難である。しかし、 学術的、記録的な点においては非常に貴重で価値の高い作品である。制作スタッフの一員 である山岡強一(1940~1986)は映像として各地のドヤ街を記録した。そしてドヤ街に関 する論文を集めるなど間接的ではあるが、後の活動や研究に大きく貢献した。

第六章 山谷化する日本

(1)貧困化する日本〜ネカフェ難民〜

山谷は福祉の普及や行政のサポート、ホームレスの高齢化により、過去のような光景は珍しくなっている。

しかし、日本全体で見れば「貧困」が悪化しているのは紛れもない事実だ。

山谷に変わる新たな貧困地域が形成されつつある。

それはインターネットカフェである。

いわゆるネカフェでは安い使用料で宿泊することが可能である。それゆえ、若い世代 が店舗に居座る「ネカフェ難民」が 2000 年代後半から問題視されている。

この構造は山谷のドヤ街と同じであり、簡易宿泊所かインターネットカフェかの違いである。現代人に 必要とされるネット環境や漫画本などの設備は整っているという点では、優れている。

しかし、安全面ではスリや置き引きの被害があうという点では両者とも決して安全ではな い。この貧困問題から考察できることは、貧困問題は常に私たちの身近に存在するということ、そして私たちもまた山谷民のようにホームレス・難民化する可能性を孕んでいるという点である。

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写真:山谷では不法投棄が当たり前。しかし、ゴミを拾って生活する人間もいるのが皮肉である。

新型コロナウイルスの影響もあり、国民の失業や就職難が加速している。 山谷は消えつつある半面、逆に東京の都市部が山谷と同じ構造に似通ってしまった。これからますます貧困層は拡大することが予想される。ネットカフェ難民が増加した背景には 現代人が抱える闇がある。山谷民の場合、多くは前科持ち、低学歴・被差別部落出身など ルーツに関するバックグラウンドがあった。しかし、いわゆるネカフェ難民は大卒・専門卒、元一流企業出身のエリート階層である。

さらに、女性のネカフェ難民も多数存在する。

彼女たちがこのような状況に至ってしまった原因は、ホストクラブに大金を貢ぐ「ホスト狂い」により生活難・借金地獄になったケースや、学費を稼ぐといった場合がある。 

山谷との類似点は家を持たずに生活を行っている点、都内の居場所を転々として生活して いるという点である。

このような貧困問題は形を変えて点在している。

特に東京における このような貧富の差、依存性の高い娯楽などいたるところに罠が存在する。歌舞伎町は最もわかりやすい例であろう。

ホステス・キャバクラ、ホスト、風俗嬢として働く若者の一 部には、ゆがんだ家庭環境から抜け出す抜け出す目的で勤務する者や、反対にブランド品を手に入れたがために働く者もいる。

この構造としては山谷における日雇い労働者の目的 と同様である。貧困から抜け出すために山谷・歌舞伎町に出向くが、多くは貧困から抜け出せず、その街にとどまり続ける。1960 年代では男性が力仕事を武器に労働していたが、 現代では女性が自身の性を売りに商売をする真逆のポジションになっている。

山谷の場 合、ある程度時間が流れてボランティア団体や非営利活動法人が支援の手を差し伸べてくれるが、歌舞伎町の場合誰も助けてくれない。そしてアルコール・ドラッグの問題が多数発生している。

そのような点から、歌舞伎町は第二の山谷と化しつつある。

(2)外国人研修生制度の罠〜帰れない人々〜

貧困問題に巻き込まれた人間は日本人だけではない。

近年問題視されているのは、外国人研修生制度による帰れない外国人問題である

日本政府はベトナムやフィリピン、ブラジルなどの比較的貧富の差が著しい諸国に対して「研修生」として農場や工場といった技術職に働かせるというシステムがある。

目的は貧困で技術を学ぶことが難しい人たちに日本人が教育をさせ、母国で活躍で きるよう貢献するというものであるが、実態は日本国内に外国人貧困層を生み出してしま ったシステムであると言える。

農場主や工場長が低賃金で外国人を働かせ、給料の半分は 不正に領主が奪ってしまうといった事例が数多く存在する。

更に、外国人研修生が生活する部屋は一人暮らし用の部屋の中 4 人で生活しなければならないといった劣悪な環境である。

解雇も比較的容易にできてしまうので、その結果東南アジア系の外国人が貧困化し、 盗難等の犯罪に走るなど負のループを生み出してしまった。

山谷に共通することは、行政の委託業者による不当な搾取により貧困層にされてしまったという点である。

資本主義社会における格差ではあるが、

労働者 vs 資本家、奴隷 vs 領主

の構造が現代の日本でも平然と行われているのである。

おわりに

僕は山谷を通して日本の貧困問題を真剣に考えた。

山谷という街には、ここでは書き切れないほどDEEPな話題や住民、建物がたくさんある。

しかし、メディアで映しているパートはごく一部である。

実際訪れてみれば分かることだが、

「危険」というよりかは

「閑静」

といった方が正しい表現かもしれない。

人それぞれ山谷に対するイメージは違うとは思うが、

僕は山谷という街に言葉ではうまく変換しづらい雰囲気を感じ取った。

この記事は主に街の歴史やそれを取り巻くメディア、歴史、人々が中心であったが、

次回の記事では

「山谷案内所〜山谷の歩き方」

というテーマで執筆しようと思う。

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僕は写真家であるため、今回はあまり自分が撮影した写真を載せるのに抵抗があった。

なぜなら写真集として出版・発表したいからである。

それでも僕個人としては山谷という街を知ってもらいたい。

皆さんも機会があればだが、山谷に立ち寄ってみてはどうだろうか。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

次回またお会いしましょう!!


参考文献集

・秋山眞人他「ドヤ街」と宗教:山谷におけるホームレス支援の現状と課題」、『宗教学年 報』32 巻、2017 年、pp.133-169。
・岡林信康「山谷ブルース」日本ピクター、1968 年。 

・織田忍「写真家・南條直子が向き合った世界 : 日雇い労働者の街「山谷」を撮り続けた女」、『金曜日』20 巻、2012 年、pp.10-13。

・ 神奈川県伊勢佐木警察署「月別刑法犯発生状況統計」。
公益財団法人東京都人権啓発センター「TOKYO人権 第81号 平成31年3月28日」

厚生労働省「ホームレスの実態に関する全国調査(概数調査)結果について 平成31年4月26日」。

厚生労働省社会・援護局地域福祉課「ボランティアについて

・佐藤満夫監督『山谷─やられたらやりかえせ』「山谷」制作上映委員会、1986 年。 

・多田裕美子著『山谷 ヤマの男』筑摩書房、2016 年。 

・谷口ジロー『孤独のグルメ』扶桑社、1994 年。

 ・ちばてつや『あしたのジョー』講談社、1968 年。
・土田英雄「ドヤ街の比較研究」、 『大阪学芸大学紀要 A 人文科学』15 巻、・1966 年 pp.203-215。
・馬場佳久「 社会的棄民の民族誌--山谷ドヤ街の文化研究」、『関東都市学会年報』5巻、2003 年、pp.57-72。
・南條直子著、織田忍編『山谷への回廊―写真家・南条直子の記憶 1979-1988』アナキズム誌編集委員会、2012 年。
・新納翔著『Another Side』メディア・パル、2017 年。

 ・西村健『最果ての街』角川春樹事務所、2017 年。

・向井 宏一郎「現場から 山谷のたたかいは続いている」、『寄せ場 : 日本寄せ場学会年 報』27 巻、2015 年、pp.209-220。
・山下竹史「ドヤ街--山谷(特集・日本の貧乏を探ぐる) 」、『社会事業』43 巻、1960 年、 pp.8-12。
Japan Today “Sanya: A travel guide to Tokyo’s coolest ghetto” May 21, 2009 
MOTION GALLERY 「山谷に娯楽を!昭和の古き佳き映画を安価で見れる映画喫茶 『泪橋ホール』」
P+D MAGAZINE 「ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第一回 時代が交錯する街2018月7月27日」

The Guardian “The Tokyo neighbourhood where people come to disappear”Jun 14,2019 

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