見出し画像

「歴史の振り返り」と「未来における進歩」の架け橋「現在の学び」

1 挨拶

 皆さんこんにちは。
 昨晩、次回に続く次回の拙作の解題を完成させましたので、以下の通り、様々な文献と共にご紹介いたします。

2 拙作『徳九層倍 実事求是・経世済民・利用厚生』

2.1 表表紙

2.2 扉

2.3 目次

2.4 解題

 伯(バク)胡(ホー)(ホー・チ・ミン主席の尊称)は、自分と自分達が最も誠に深く瞻仰・鑽仰する先哲達の一人であり、こよなく愛する我が祖国ベトナムの二十世紀にて、ベトナム独立運動の父であり、北ベトナムの建国の父であり、最も影響力を持った人物の一人であり、そして、真正直に言い尽くすと、ベトナムの社会・政治・国家・民族・歴史・文化等に絶大な功罪を遺した、聖哲にして罪人である。

 『論語』(憲問 14:22)に「欺くこと勿(なか)れ。そして、之を犯せ。」とある。思うに、誠に深くその人物を瞻仰するからこそ、自己欺瞞に歴史の隠蔽・歪曲・改竄等を決してせずに、博学審問に努め励んでは、現実や事実の軽視に無視、出来事や事件の粉飾に虚飾・人物の絶対化に神格化等を根本的かつ徹底的に打破して、誠に徹しながら懐疑心に批判的思考・科学性に多様性・中立性に客観性を以て、誠を尽くしながらその人物を毀誉褒貶し、そして誠を以て剛直な猛省と建設的で進歩的な改善に努め励むことが、自分の誠に深く瞻仰・鑽仰する人物への最善の敬礼である。「Servant Leadership」(サーバント・リーダーシップ)というリーダーシップ哲学があるが、「瞻之在前、忽焉在後。」と言う言葉があるように、偉大な指導者は人々の目前に居て瞻仰されるが、忽焉として人々の後方へと退くものである。思うに、晩年の伯胡の人生は、形骸化した象徴と深い孤立に喪失に満ち溢れたものであり、自分と自分達はそれを学び知った時に深く悲しんだ。我が祖国ベトナムは、あまりにも、寡聞浅学で浅学短才な国家であり、歴史であり、民族であり、そしてそのような「国運」即ち「天命」を背負った、不運で未熟な共同体であった。そして現在も、成長に進歩を遂げているとは言え、まだまだ寡聞浅学で浅学短才、そして不運で未熟である。現行政権である共産党は、ホー・チ・ミン主席を形骸的に祭り上げては、欺瞞的に絶賛して、恣意的に評価し続け、その一方で反政府の勢力(旧南ベトナム共和国の人々やベトナム革新党等に人権活動家達や宗教家達)はホー・チ・ミン主席を酷く憎悪しては讒謗し続ける。この両極端の評価、そして一人物への過集中の評価は、長年に亘って被り続けた植民地支配と苛(か)烈(れつ)な戦争による、我が祖国並びに民族の歴史的な悲劇、そして、国内外の我が民族の根本的な帰属の誤りと我が祖国の民族的・文化的・歴史的な浅学非才が具現化したものの一つである。「Vụ Trần Trường」(チャン・チュオン事件; 別名『1999年 反ホー・チ・ミン抗議事件』)や「Chiến dịch Cờ Vàng」(黄旗掲揚運動)等の、思うに、民主や自由等を強く主張しながらもそれらを勉強や理解していない人権問題事件や社会運動が、反政府側の実例であり、そして、「Học tập và làm theo tư tưởng, đạo đức, phong cách Hồ Chí Minh」(ホー・チ・ミンの思想・道徳・風格を学習して、それらを倣って実行する。)と言う中身の無い標語と有言不実行の政治運動が、共産党の側の実例である。どちらも実に醜くて嘆かわしいものだと思う。

 自分と自分達が深く敬愛している人物が、このような醜悪な両極端の評価を被り続け、一方では共産党に一党独裁の正当化のために過大評価に好評や高評等されては、その遺徳が濫用や悪用され、その罪過は批判や非難されず、もう一方では、反政府の勢力に政権転覆のために過小評価に冷評や酷評等されては、その偉業は全否定され、その功徳は完全に無視される等、本当に痛ましいことであり、悲しいことであり、そして、我が祖国並びに民族が歴史的な悲劇から立ち直って、お互いに和解と兼愛を成し遂げられず、我が民族がいつまで経っても根本的な帰属の誤りを犯し続け、我が祖国がいつまで経っても民族的・文化的・歴史的な浅学非才を自覚しては、自省して、自助努力できないのは、より一層、本当に痛ましいことであり、悲しいことである。

 このような悲痛から、自分は批判的にホー・チ・ミン主席の思想・道徳・風格を学習しては、独創的にそれらから実行をして、理論家としても実践家としても、実事求是・経世済民・利用厚生を成すことを志した。理論家としても実践家としても志を誠に懐いては、誠に高めて、誠に深め続ける為には、修徳が必要不可欠にして重要不可欠である。そこで、自ら自力で自分自身の為に「寛而栗・柔而立・愿而恭・乱而敬・擾而毅・直而温・簡而廉・剛而塞・彊而義」の九徳を己自身に理論的に教育しては、「実事求是」そして「政治・思想・組織」/「経世済民」そして「文化・道徳・社会」/「利用厚生」そして「革新・参入・発展」の三業と九事を己自身に実践的に教導して、有徳な志節堅固の研鑽(けんさん)を遂行し続けていく。故に拙作は、この志の教導の為に著述した教訓書である。

 ところで20世紀の我が祖国ベトナム(精確には北ベトナム)にて、ベトナム独立運動の最重要人物の一人であり、ベトナム人民軍(最初はベトナム解放宣伝軍)の創設者の父であり、当時の世紀の戦史で最も影響力を持った人物の一人であり、そしてホー・チ・ミン主席と並ぶ人物が、ヴォー・グエン・ザップ大将/総司令官である。ザップ大将もまた、自分と自分達が最も誠に深く瞻仰・鑽仰する先哲達の一人である。思うに、我が祖国ベトナムの20世紀の歴史は、文徳を体現した人はホー主席であり、武徳を体現した人はザップ大将であり、自分と自分達は、この御二人を誠に深く敬慕している。そしてもちろん、この敬慕の念には、前述の同様に、根本的かつ徹底的な懐疑心に批判的思考・科学性に多様性・中立性に客観性を以て、剛直な猛省と建設的で進歩的な改善に努め励む志に拠っている。実に残念ながらザップ大将もまたホー主席と同様に、共産党の隠蔽に歪曲や虚偽に満ち溢れた欺(ぎ)瞞(まん)的な過大評価に好評や高評等されては、その遺徳が濫用や悪用され、その過失は批判や非難されていない。拙作『社会善』・『人文佳品』・『根性』等の執筆を通じて、自分は様々な政治学に政治意識・歴史学に歴史観・軍事史に軍事学等を研究しては鍛練したが、ホー主席とザップ大将の偉大な才知・人格・徳行等と、その様々な著作の内容が、月と(す)鼈(っぽ)の(ん)如く、余りにも掛け離れていること、そして三度に亘るインドシナ戦争の戦前・戦中・戦後における、日本・フランス・アメリカ・カンボジア・中国等の諸外国はもちろんのこと、共産党による公式の、善悪二元論的で英雄的で虚飾や自画自賛に満ち溢れた政治史・戦史・国史等とは大きく掛け離れた我が祖国ベトナムの、無知で無学で無徳で無道だらけの政治史・戦史・国史等をも、数多くの深い悲憤慷慨を以て、深く学び知ることが出来た。もちろん善悪正邪という評価は大切であるが、偏頗で自画自賛の二元論に基づく史観は甚だ誤ったものであり、そして英雄的で愛国的であり、祖国並びに民族の誇りである人達・出来事・理念等は確かに多々あったものの、結局、大勢の人々が戦争に惨殺されたのであり、そしてどんなに称えられては祭られようが、死んだ人達は永遠に帰って来ないのだ。

 思うに、政治史・戦史・国史等、そして世界史に人類史は、善悪正邪という評価の他にも、多様性のある科学的・中立的・客観的な評価を数多くしてこそ、より正しい・より深い・より善い・より誠な評価が初めて成されるのだ。そのことを、拙作『社会善』・『人文佳品』・『根性』等の執筆を通じて、自分は思惟的にも実践的にも、そして理論的にも経験的にも、数多くの深い激痛や辛苦に悲痛を以て、誠に深く理解することが出来た。

 思うに、ホー主席とザップ大将の著作の内容は、もちろん素晴らしいものが多々ある。そして、誠に成長・発展・進歩の後世の我が祖国並びに人民が真正直に批判しなければならないことが、ホー主席とザップ大将の著作の内容は、浅学短才・虚実混交・有名無実・辺幅修飾・文過飾非が実に極めて多いということである。そしてその真正直な批判は、ホー主席とザップ大将等の「個人」の問題であるというのを指摘するものだけではなく、太古から当時までの政治・文化・歴史・地理・民度等「環境」の問題でもあるというのを指摘するものでもあるのだ。

 「小人は個人について論じ、中人は事柄について論じ、大人は理念について論じる。」、これは自分が歴史観を創造するに当たって、父が自分に言った言葉である。拙作『社会善』(上巻 三心勤勉 第Ⅳ章 天命 19)にこうある。

国家。赤ん坊達に天性が在り、環境に天運があり、各個人に天理が在り、文化に国風が在り、国運に変動が在り、民度に変化が在り、国家指導者に天道が在る。

 環境に天運が在るが故に、個人の意志ではどうしようもないことが常にある。個人の意志は環境に由りかつ定められるのだ。しかしそれと同時に、環境は個人の意志に依りかつ変えられるものもまた確かにあるが故に、環境に天運が有るのだ。そう、個人の意志でどうにかなることもまた確かにあるのだ。「運も実力の内」と言う言葉があるが、思うにこの言葉は、確かに偶発的で客体的な成功や勝利はあるが、しかしそれと同時に、意図的で主体的な成功や勝利もまたあるのだ。だからこそ、個人について論じるに当たって、事柄についても確りと論じることで、懐疑的・批判的・理性的・科学的な評価を、事柄について論じるに当たって、理念についても論じることで、多角的・多面的・中立的・客観的、更には建設的・発展的・進歩的・創造的な評価を遂行することが出来るのではないだろうか?拙作『社会善』(中巻 三知勤勉 第Ⅱ章 志学 19)にこうある。

自堕落に強圧や殺傷等でさえも、学徳が修めれば、善き学習となり、そして、結実もあるのだ。故に、矯正に更生があり、投獄に死刑があり、防戦と反攻がある。厳酷な現実を観ろ!

 矯正で更生が誠に成し遂げられるのは極稀で、そしてそれも極めて遠くて難しい道である。死刑が極力無いように、そして投獄が着実に減っていくように最善を尽くすべきであろう。防戦と反攻が誠に迅速かつ適確に連係しなければ、敵軍を本当に撃退できないのだ。故に自分は「と」と著述したが、平時の社会生活・私生活もまた同様で、「自省に自助があり、後悔に懺(ざん)悔(げ)があり、防犯と反省」とも言えるだろう。つまり、自省しては自助するまでの道は極めて遠くて難しく、懺悔が極力が無いようにしては後悔が着実に減っていくように最善を尽くし、そして、防犯と反省が誠に迅速かつ適確に連係するようにして、自他が犯罪や過失等を成さないようにすることである。前の二者はかなりの思考・行動・労力・費用等を要するが、長い時間を掛けても良い、或いは掛けなければならない。しかし、最後の後者はかなりの思考・行動・労力・費用等を要する上に、速断しては遂行しなければならないのだ。「時間は判断を待ってくれず、環境は意志を酌まず、天命は至公至平にして不仁無情である。」、これが観なければならない厳酷な現実である。

 拙作『ヴェネツィア共和国の神君』(第二章 元首と私「柔而立」 15)にこうある。

元首が事故や事件に戦争等を深く学ばれたり、勇ましく挑んで解決した後に、よく深いため息を吐いては、涙を多くかつ長く流されて、「またかあ…」と嘆く度に、私は「徳を新たに得られては新たに楽しまれましたか?」と申し上げ、その度に元首は笑って「うむ!」と仰り、そして元気を取り戻されておりました。

 我が祖国ベトナムは、19世紀から20世紀に亘って、悲劇に満ち溢れた実に辛い歴史を歩み続け、数多の猛烈な戦禍に戦争犯罪・分断に幽愁暗恨、失政に政治腐敗等が起き続けてしまった。そして現在の21世紀にて、高度な発展途上国として躍進している。様々な新しい社会問題が多発しては激増する上に多様化や巧妙化に激化もし続けており、取り分け汚職は社会的・政治的・歴史的・文化的な重度の社会問題の一つである。そこで自分は、祖国への至誠なる利他心・公共心・忠誠心・愛国心を以て、実践躬行と率先垂範に格致日新して、剛直な批判を以て現在の祖国の実情を洞察すると同時に、剛直な猛省を以て過去の祖国の歴史を洞察することで、戦時と平時の哲学的な防犯に貢献し、そして未来の祖国の戦時における様々な戦争犯罪と平時における様々な社会的犯罪の防犯或いは解決に誠に貢献することを志した。故に拙作は、この志の実現の為に著述した教訓書でもある。

 我が祖国ベトナムが、そして我が第二の祖国日本が、抜本的かつ徹底的な防犯と猛省を遂行して歴史的な進歩を成し遂げ続けることに、拙作を通じて徳と道を以て誠に貢献できることを切に願う。

2.5 参考文献一覧

2.5.1 ホー・チ・ミン主席

2.5.2 ヴォー・グエン・ザップ大将

2.5.3 汚職問題

2.5.4 古典

2.5.5 思考法・仕事術・組織論

3 結語

 少し休んだ後、芸術・美学の研究活動を再開します。

ありがとうございます。心より感謝を申し上げます。