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お母さんの話

8人兄弟の末っ子に生まれた母は、旧家と言われる家に嫁いできて以来専業主婦として家計を切り盛りしてきました。私が子供の頃は祖父母、両親、私を含む4人兄弟の8人家族。生まれながらの坊ちゃんで世間知らずの祖父と他人の気持ちを読むことができず気が強い祖母、長距離トラッカーで不在が多かった父に囲まれて母の結婚生活は試練の連続だったと思います。諦めたことも多々あったと思いますが、それでも母はできる範囲で好きなことや趣味を楽しみながら自分らしく生きている、言わば私にとって生き方のお手本のような人生を見せてくれました。なので私の人となりも、母から影響を受けている部分が多いというのは否めません。

子供の頃、私たち兄弟はいつも母が縫った洋服を着ていました。同じ布でそれぞれの年齢や好みに合わせたデザインで作ってくれます。だから私は小学生の頃からファッション雑誌や洋裁雑誌をよく見ていて、縫い物にも興味がありました。毎年夏休みの宿題は母に協力してもらいながら作品を作っていました。いちばん最初は小2の頃で豚のぬいぐるみだったと思います。今考えると2年生で普通にミシンを使ったりしていたので我ながらすごいことだと思うのですが、それをやらせてくれた母の寛大さは素晴らしい。だって下手くそなのでミシンの針を折ったりしていましたからね。でもあの頃の私にとってミシンを使って縫い物をするのは本当に楽しいことでした。
母はいつも午後になると自室にこもって洋裁をしていました。当時の娯楽はラジオが主流でよく番組に葉書を送って読まれていました。当時母が好きだった西城秀樹の「ブルースカイ・ブルー」やウエスト・サイド物語に出てくる「Tonight」をリクエストして、番組で流れたのをテープに録って何度も聞き返し大切にしていました。そんな母が縫い物をする午後はゆっくりと時がすぎ、とても心地よい空気が流れていた記憶があります。

母の朝はとても忙しいものでした。毎朝起きると玄関を掃き清め居間やダイニングに掃除機をかけます。8人分の朝食を準備した後は、お供え用のお花と水とご飯とお菓子を用意して仏壇の前でお勤めが始まります。朝のお勤めは私も続けているのですが、般若心経を一度だけ唱える私と違って母の場合は長時間仏壇の前にいます。毎朝家族に関わる全ての人の幸せを神仏様にお願いしています。母がお参りをしている間は仏間は静かに閉ざされ、話しかけることはできません。私たち兄弟も毎朝仏壇にお参りをしてからでないと朝ごはんを食べることはできず、座布団に正座をしてご飯をいただく、そんな躾をされて育ちました。

家は浄土真宗のお東でお寺さんの出入りも多かったのですが、母はそれとは別に天台宗のお寺にもよく行っていました。もちろん祖父母や父が良い顔をするわけないので大っぴらにはできませんが、それでも暇を見て熱心に通いました。私の仏教好きは、こんな母の影響を多分に受けているものと思われます。

私たちが小学生の頃は、母はしょっちゅうクラス役員をしていました。当時は今みたいに順番に全員が役員を経験するようなシステムとは違い、保護者による推薦などで決められていました。その結果母が役員をやることが多かったし、母自身もそれを楽しんでいるようでした。末っ子の弟が小学校に入学すると専業主婦だった母も働きだし、地区センターに勤めるようになりました。その傍ら学生時代に新体操部だったことを生かして、地域でリズム体操の教室をするようにもなりました。好きな曲を選んで自分で振り付けを全部考え、それを生徒の皆さんに教えるのです。私たち子供も協力して流行の曲を教えてあげたりCDを貸してあげたりしました。この活動は何十年経った今でも毎週続けられているので、母はいろんな意味で老けることはないでしょうね。そんな母なので、私が地元にいる時に一緒にショッピングセンターへ買い物に行くと、何人もの知り合いに声を掛けられます。みんな母のことを名字ではなく「F子さん」と下の名前で呼んでいます。

地区センターで働き始めると同時にパソコンを使うようになった母。Wordを使ってチラシを作るのが得意なようで、よくいろんな所で作品を目にしました。お婆ちゃんになった今でも仕事は辞めたもののパソコンを使う機会が多いらしく、時々新しい機種に買い替えたりしています。そんな時はオタクなうちの主人が協力するのですが「あの年でよくやっているよ」と母のことをよく褒めています。

そんな母の最大の特徴は健康オタクなことでしょうね。私が学生時代まだ一緒に住んでいる時からそうでした。インスタント食品やスーパーのお惣菜が家の中にあることはなかったです。鈴木その子さんの信者で、野菜でも肉でも食材は全て切ってから水に浸けておいて悪い物を出すという下処理を行ってから調理していました。添加物を嫌い、おかずは何でも手間暇かけて手作りしていました。母が作る野菜をいっぱい使ったお惣菜は本当に美味しくて、いつも母が作るご飯を食べていた私は時々外食などで母以外のご飯を食べるとお腹が痛くなって下痢をすることが多かったです。今でも実家へ帰るとたくさんの美味しいおかずでもてなしてくれて、主人も母の作る料理が大好きです。体にも心にも優しくて美味しいご飯です。「地球最後の日に何を食べたい?」と聞かれたら、私は迷わず「お母さんのご飯」と答えるでしょうね。

大人になって思うのは、うちの両親が他の家の親より仲良しだということ。生まれてこの方喧嘩しているのを見たことがない。祖父母が同居の大変な環境だったことを考えると父はしっかりと母を守ってくれていたのでしょうね。母も、いつも父のことをたてて大事にしていて偉いな。私もこんな夫婦で在りたいなと思います。

子供の頃両親に遊んでもらった記憶はあまりないけど、大家族の中で揉まれる姿を身をもって見せてくれた母。好きなことを見つけて取り組むことの素晴らしさや可能性、そして人は自由なんだということを教えてくれた母。私の人生に良い意味で多大な影響を与えてくれた母。こうやって文章にしてみて改めて母の愛に感謝の気持ちでいっぱいです。

そしてこれからの時代、私は殻を破って広い世界へ飛び立ち、より自分らしく無限に広がる可能性とともに生きていきたい。そんな姿を娘たちにも見せたいと思います。

お母さん、本当にありがとう!

未来はいつも面白い!