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大学教授を目指さないように!

いつも通り、長文の雑感を書いてお目汚しをします。

恥ずかしながら駄文をしたため、自分の過去を振り返った表題の内容で世間で研究職(教育も含め)を目指す若い学生諸君に、僕自身の人生においてどうやって進路を決めていったのかについて、参考にはならないかもしれないけど、こんな人間だから本当に運よく大学教授になれたということを書いてお茶を濁してみたい。

もう45年以上前、大学3年生くらいのある金曜日の夜の情景。大学近くの雀荘でいつものメンバーと安いレートで半荘を6局くらい打ち終えたら、すでに10時過ぎ。当時住んでいたのは、江戸川区春江町のおんぼろアパート。一番近い総武線新小岩駅(当時は国鉄)からの終バスは早くてすでになく、亀戸駅からの終バスが11時ちょっと過ぎのはずで、これに間に合わないと当時で1300円くらいの痛いタクシー代。夕食はビールを飲みながら、雀荘の出前のカツ丼か中華丼で済ませていて、慌ただしく四ツ谷駅から総武線に乗る。他の連中は殆ど逆方向の中野や吉祥寺あたりのおしゃれな街に住んでいたので、ここからは僕一人。バスへ乗り継いで帰宅するとほぼ12時。安いウィスキーをストレートでグラスに注ぎ、さあ寝るかという段になって、今日の昼の授業で気になっていたことを思い出す。当時はネットでググるなどということはできなかったので、ウィスキー片手に辞書や参考書をひっくり返して、ようやくポイントを掴んでノートにメモ。眠気も大絶賛の2時過ぎ、布団にようやく潜り込むが、翌日が土曜と言っても休みではなく、当時はきちんと1時間目から必修科目があり、何と午後の授業は専門科目「言語学」のゼミ(2コマ続けて)。これが曲者で、通常の4時あたりに終わることは少なく、担当のY先生が納得するまで終わらない。下手すると、休憩をはさんでの5時や6時くらいになることも。へとへとになって、さあ帰って軽く飲んで寝るぞというのに、ストレス全開の他の受講生から「飲みに行こう」とのお誘いがかかるも、当然断る術はなく、またもや終バスぎりぎりの帰宅となるのであった。それにY先生本人からもときどきお誘いがかかり、笹塚や下北沢のバーで、チーママにでれでれしている先生を見ながら、その日は中野や高円寺の友人の家に転がり込むということもあった。

高校2年生の夏、大学受験なんて全く眼中になかった僕は、音楽活動と、安保法制、少年法改正などなど政治活動にのめりこんでいた。高校の部活動「弁論部」での全国行脚にも熱中していて、そこでの原稿も当然「左」の論理爆発。「戦闘機売って病院や幼稚園建てろ」と、今でも通用する当たり前の議論を精密にやっていて、「沖縄売って満州買おう」などとバカなことを言っていたが、後に自民党衆議院議員の秘書から愛知県の地方議員になった同期の奴とか、毛沢東語録を制服の胸ポケットに入れていた奴とかと激論を交わしていたのである。そんなある日、少年法の問題で行き詰まることがあって、父のコネで当時中京大学教授であった、これは実名でいいだろう、憲法学者の上田勝美先生(後に龍谷大学副学長)に教えを乞いに行くと、多くの参考書や雑誌のコピーを目の前に出され、いついつまでに18歳選挙制度と少年法の関係を整理して書いてみなさいとのご指示。これは大変なことになったと猛勉強。数日後に原稿を持っていくと、赤でぎっしり添削が入るも、その後何度か書き直して、ようやく「これでいいだろう」と言うお墨付きを貰い。その原稿と想定質疑であちこちの弁論大会で優勝や入賞したのは、本当に素晴らしい思い出になった。当時は社会党系のセクトに入っていて、宿敵である共産党系の集会(民青集会)に紛れ込んでは、集団討論の議長を買って出たりして、難しい議論を吹っ掛けては主催者側から睨まれながらも、集会が終わると何人かのいたいけな少年・少女をこちらのセクトに引き込むという荒技をやっていた。当然、公安からも目を付けられていて、写真や出自は公安のリストに入っていたらしく、ある日父が「お前何故民青集会なんかに行っていたんだ」とびっくりするお言葉。詳しく聞いてみると、公安筋から「先生のご子息、何故か民青集会にいましたよ」と写真を見せられたそうだ!適当に理由を誤魔化したが、集会荒らしは若干自粛しようと思ったのだった。

大学4年。朧げにどこか会社に就職するのかなあと思っていて、おまけにスーツを誂えたので、同級の友人たちと会社まわりに奔走した。上級公務員試験も受けたがこれは敢え無く1次で不合格。当時、景気は上向きで、会社説明会に参加した学生には交通費やお弁当が渡されていたので、それもあって20社くらいは訪問したのであった。これは以前にも書いたが、その中で数社からお声がかかり、酒も好きなことから(動機が不純かな!)、洋酒大手に内定したのであった。ただし、本命は○○航空だったのだが、これは不運なことに僕の卒業年度だけ募集を中止してしまったのであった。実は、スチュワーデス物語の教官になりたかった。知っている方に、その教官職をされている方がいて、その方から次のように聞かされていた。「最初は地上勤務の主な所を順番に勤務して、その後、アメリカかイギリスに留学して、MBAなんかの専門の知識に関する資格を取得し、帰国後は教官職などを務め、ある年齢に達したら、外国の支店長などに配属される」というもので、これにはかなり惹かれたのであるが、残念ながらその機会は訪れなかった。実は、その当時1つ下で高卒後OLをしている彼女がいて、僕が洋酒大手に決まったことを非常に喜んでいて、(ひょっとして)結婚したら会社を辞めること
をかなり楽しみにしていたと思われる。

中学・高校時代は本当に(適当に)英語だけ勉強していて、高校2年の終わり頃にAmerican Field Service(通称AFS)というアメリカに1年間留学できるプログラムに参加する試験を受け、あわよくば受かると思っていたが、さすがにハードルは高く、それでも愛知県でベスト4までに入り、何と最後の試験で僕だけ落ちるという憂き目に遭うという不運(というか実力がなかった)!他の3名がここでアメリカに行ってしまっては、その後の実力に大きな差が出るのは当然!おまけにその3名の中には小学校の同級生で、後年名古屋の有名私立大学の教授になったM君もいて、一気にやる気がなくなり、その瞬間に英語の勉強は一切止めてしまい、大学受験という大きな問題を抱えることになった。その後、英語の勉強を再開したのは、大学の専門科目で言語学の原書を読むようになってからであったが、それでも何とかなったのはラッキーであった。まあ、結果として、マークシートの指運良く○○大学に合格できたのだが、1年間の受験勉強はそれまでの自由な高校生活に比べると本当に苦行と言える代物で、勉強の際のタバコの本数もどんどん増えていったのであった。なお、学生諸君に正直に言っておくが、僕は高校1年の夏からタバコを吸っていて、39歳の春に止めた。僕の人生で唯一後悔していることが(本当に唯一か??)、タバコを吸っていたことで、当時はその害についての情報も少なかったが、今となっては絶大で、学生諸君にも二十歳になったら禁煙しろと言っておきたい。

さて、ここからが本論であるが、内定式も迫る10月までに、その洋酒大手に就職したらどうなるのかと、先輩の話しも加味してあれこれ考えてみると、どうしてもメキシコあたりに出向させられて、そこで一生が終わる姿しか浮かばないのである。もちろん円建てでもらえる給料は当時ならメキシコではメイドも雇って暮らせるくらいのものだったのだが、そんなのを目指していたんじゃない、そんな人生は嫌だと、徐々に思い始めてしまったのである。(まあ、会社人間になれない自分がはっきり見えてきたわけね)簡単に言えばモラトリアムであるが、自分の過去を振り返ってみると「人を遣り込める強引な議論が好き」、「酒・ギャンブル、特に競馬と麻雀が大好きで、それ以外の趣味にも、一定期間はそのことだけに熱中して、とことんやりたくなる」などなど、要するに「遊び人」の生活が向いているんじゃないか、ということがはっきり分かったのであった。さあ、ここからが問題であった。就職先の内定を断るかどうかの決断に迫られ、そのあとはどうするかを考えなければならなくなった。就職して、メキシコ(とは限らないが)に行って、飽きたら辞めるという選択もあり、実際、同期でもう1名その会社に入ったK君も同じ目に遭って、後の同窓会で聞いた話しだと、メキシコやサンパウロなどあちこちを転々とさせられ、全然日本に戻れないので、10年程度で辞めて、その後は都内で画廊や趣味の音楽の店を開いて成功していた。高いベンツに乗って、帝国ホテルのラウンジでご馳走してもらったことは今でも覚えている。

余談であるが、その同窓会で、卒業同期の男子がその後どうなったかを聞いたが、まず意外にも銀行は辞めていなくて、大手商社やメーカーに入った殆どが有力な中小の部長クラスに転職していた。

さて、決断を迫られた結果、選んだのは大学院への進学であった。さすがに住所不定無職はダメかと思い、今流行りのパラサイトなどは許されるはずもない。もちろん、当時の○○大学の修士課程は簡単に合格できないので、そこから2月の試験に向けて猛勉強が始まった。大学受験以来2度目の遊ばない期間であった!さて、結果は見事合格(ほかの大学の大学院も2か所受けて、それは1勝1敗だった)!

その後は、紆余曲折、非常勤講師と塾や家庭教師などのアルバイトという非正規の期間を経て、32歳で長崎のある公立大学の専任講師になり、その後福岡のある私立大学に転出して、現在に至っている。本当に幸せで、運のよい人生だと思っている。

もし、大学の先生になれなかったら?30歳になったときに決めていたのは、35歳までに教員になれなかったら、塾で教えていた関係者で知り合いの本当に小さな専門書を扱う出版社に雇ってもらうつもりだった。珍しく、セーフティーネットというか、滑り止めみたいなことをしてしまったのは、歳をとって、焼がまわったせいかもしれない。

さて、大学院に進学したご褒美は!

先ず、上記の彼女には、11月くらいに就職の内定を蹴って、大学院に進学したいと言ったら、「何しに行くの」の一言で破局。たしか、東武東上線のある駅のホームだったと覚えている!

卒業謝恩会の2次会のディスコ(今はクラブか?)で、同じ大学院に進学予定で、ちょっと仲の良かった女子と調子に乗って若干濃厚なチークダンスを踊っているのをスペイン人の恩師が目撃!後日、「○○君が大学院に進学するのはおかしいと思っていたが、あの子が理由なのね」と言われ、その程度にしか見られていなかったと、逆に納得した。

3月も末になり、その謝恩会からの朝帰り、アパートの部屋で思った。「さあて、アルバイト探さないとなあ!」

経済的に恵まれていなくて、こんな生活を真面目に過ごそうと思っているなら、大学教授なんて目指さないように。

いい加減に楽しんで、あとはどうなってもいいやと思っているなら、まあやってみてもよいかもしれない。

(続く)

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