禅の話は難しいけど、今日のこの話も面白かった! RYT 500 #4「ヨーガと禅」2/2
先週の土曜、めちゃ忙しくてライブ受講できず、本日夕方の空き時間に動画視聴しました。(この振替システムに助けられています)
テーマは「ヨーガと禅」2回のうちの2回目です。
前回と同じく
14時スタート、2時間30分の講座でした。
先生すごい
前回はRYT500の講座そのものの初日で、ブログも初日だったのでわすれちゃったんだけど、担当の中川志真先生がめちゃすごい。
大学でも教えているとのことなのだけど、講義が滞ることなく絵巻物のように膨大な情報ががんがん発信されていくのです。
ホワイトボード画面に、じゃんじゃん説明しながら文字が書き込まれていって、それを板書するだけでも書記になったかのようなテンションでやらなきゃついていけないほど!
私のメモも、前回同様すごい量になっています。
しかもすごく内容がまとまってるのに、何かをみながら話してる様子がないんだようね・・・。かっこいい・・・。
(タモさんが、赤塚不二夫の葬儀での弔辞を、読み上げるふりして空で言ってんじゃね説を思い出しました笑)
しかも休憩一回、5分だけ!
さらに先生は画面上から消えることなく、5分そこにいるんだよ!
頭がいい人って、こういう感じなのだろうな・・・。
てな感じで、つられて集中しまくり。
時間がたつのが、あっという間なのでした。
釈迦のストーリーが好き
今日はまず前回のメインだったインド哲学から、仏教ができていくまでの歴史的な背景や、思想の違いなどについて学びました。
ちなみに、わたしも瞑想講師養成講座などを取得しているので、仏教の話はそこでも聞いているわけですが、釈迦の悟りのストーリーが好きなんですよね。
皆さんもご存知かと思いますが、さくっと説明すると、
BC5世紀ごろの話。
釈迦(ガウタマ・シッダールタ)は王子様として何不自由なく生まれるも、
城の外に出て、病気の人、年老いた人、死んだ人をみて、おやおや?と思うわけです。
人間は誰もが等しくそれから逃れることはできないと知り、
妻と子を残して、すべてを捨てて出家。
様々な修行、苦行するも答えは見つかりません。
で、苦行でへろへろになって死にかけたところを、村娘スジャータさんに救われます。
心身の健康を取り戻し、ある日、菩提樹の下の木陰で座布団の上に座って、瞑想している時に、悟りをひらきます。
このときシッダールタ35歳。
そこで思うのです。
「苦行、意味なかったわー」って笑
いや、私がこういうのは何ですけど、意味はたぶんあると思うよ!
最初からいい感じのところで座ってるだけじゃ、悟れなかったような気もするし。
(リアル、釈迦に説法)
でもなんか、この着地点が好きなんですよね。
このエピソード、
頑張りすぎる傾向が強い日本人には、ちょうどいいんじゃなかろうか。
禅と瞑想
禅とは禅那(禅那)のことで、心が静まった状態の略、ディヤーナ(1つの対象に集中する)です。
瞑想する時に、1つの対象に集中する方法がありますが、これは「今ここ」に焦点をあわせるということでもあります。
めちゃくちゃ簡単にまとめちゃいましたが、禅はもともと中国発祥で、日本の禅にも歴史があり、ストイックなアプローチから、あれこれいいとこ取りのようなアプローチなどがあるのです。
栄西、道元、隠元、白隠などのお坊さんたちの名前は、たぶん来週にはおぼろげになっていることと思いますが、とりあえずここで白隠さんの禅画をご紹介しておきましょうか。
日常に禅の考えを
仏教が日本に渡ってきた時、それは学問的なものだったわけですが、しばらくすると、こう思った人たちが出てきたそうです。
「仏教と私が生きることに、どんな関係が?」
ですよね。
私もそういうタイプなので、前回の八支則同様、
なんとなく自分の生活に取り入れたいと思うのでした。
禅的な考え方として、先生が画面上で見せてくれたのはペンでした。
先生がペンのキャップを外します。
「ペンのキャップを外して、ペン本体とキャップが離れましたね」と。
ただそれだけ。
ただそれだけを見る。
できますよね。
「でもこれが人間関係だったらどうですか?」
あぁ。
たとえば、ペンとキャップが一体になっていたとき、
たとえば、彼と私が仲良しで手を繋いでいたとしましょうか。
それが離れた・・・。
画面から先生が片手を下ろして、キャップは見えなくなりました。
あぁ。
彼がいなくなった・・・。
「キャップはみなさんから見えなくなったけど、私の手元にはあります。ほら」
あぁぁぁぁ・・・・。
そういうことだぞっ!
そんな感じの講義でした。
どんな? 笑
このブログもまた、ただ読んでいただけたら幸いです笑
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