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ハルのユメ

私は私を卒業するの。たぶん。

もうすぐ春なんだって。下を向いて歩こう。暦の上ではもうすぐ四月。でも外は麗らかな春、なんかじゃない。って言うか私たちは空を見てはいけないから、空が今何色をしているのかもわからない。

私たちは空を見てはいけない。だって空には眼があるから。

私たちはきっと、上を向いて歩こうだなんて歌ってる平和な国の反対側にいるんだわ。
呑気な国が無責任に捨てた産業廃棄物だとか、車だとか、子供だとか、東京タワーだとか。そんなものばかりが降ってくる。空と眼が合うと必ずそれらが降ってくる。此処はゴミ捨て場じゃないっつーの。廃棄物の下敷きになって急激に増加した死傷者の数。壊れていく家と街並み。そんな問題を抱えながらもうすぐ四月。政府が出した、四月一日から施行される法案は『空見上げ禁止法』。センスの欠片もない。まんまじゃんって。残念ながらこれはエイプリルフールとやらの嘘じゃないらしい。とりあえず、まあ、そんな感じ。

でもなんだかんだ言って、私にはあまり関係ない。基本的にインドアだし、普段から空を見上げて歩くようなポジティブで楽観的な頭もしてないし、泣くときは上を向いたって涙は溢れると思うし、そしてその上、涙が耳に入るから鬱陶しいのよって、どうでもいいことを考えながら昇降口へ向かう階段の最後の二段を飛び降りた。足首を捻りかける。おっと危ない。

そんな私も明日で卒業する。らしい。これといって思い入れもないけれど。昇降口へ着くとそこにはハルがいた。スマホを上下逆に持ったまま親指はずっと画面をスクロールしてる。あからさまにぼーっとしながら靴箱に寄り掛かってる。

「ハル」
「ユメちゃん、やっと来た」
「あ、ごめん」

ユメ、っていうのは私の名前。
どうやら私は彼女を待たせていたらしい。
ハルはスマホをしまって私に笑顔を向ける。

「帰ろっか」
「うん」

昇降口を出て二人並んで歩く。
今日も歩道には影が無い。
空に浮かぶ巨大な眼の所為で日光が遮られている。だからここの住人は皆、青白い顔をしている。でも隣を歩くハルは少し違くて、白い顔だけど、青白いっていうよりも色白。さらさらな茶色の長い髪、通った鼻筋、ぱっちりな二重、クルンと綺麗に上がった睫毛。ハルは、美しい。

ハルの、少しだけピンク色の唇が動く。

「もうすぐ春だね」
「私、春ってキライ」
「どうして?」
「春になると誰もがみんな追い越し追い越されてスタートを切るじゃん。そのスタートラインに立つのは何時も背中を沢山の人に押されてただ一人。春は絶望なのに、夢を殺して輝いている所為で希望のように錯覚しちゃうとこも嫌い。春が春ってだけで愛してしまいそうになっちゃうとこも嫌い」
「夢を殺して春は光るもんね」
「うん」
「お腹空いたね」
「どっか寄る?」
「うーん」

ここで暫しの沈黙。
自転車に乗った少年とすれ違う。
灰色の街に生きている住人。
私も、ハルも。
光の差さない暗い世界だけど、空気だけは綺麗。
ここの住人はみんな車に乗らないから、排出ガスとも無縁。
みんな車に乗らないっていうのは単純に運転できる人が居ないから。
住民の誰もが、免許というものを取得できる年齢に達していない。

この国は18歳未満の子供達で構成されている。四月から施行されるヘンテコな法令を出した政府とやらも18歳未満の子供達の集団。あそこはまぁ、頭のいい奴らの集まりだけど。

そしてこの国には、現実からドロップアウトした奴らしか来ることができない。順風満帆、才色兼備、頭脳明晰、とかそんな奴らとは無縁の世界。私の場合、登校拒否し始めて3ヶ月目の朝、目が覚めたらここに居た。何故か知らないけどその時私は、右手にポンデリング、左手にスタバの抹茶フラペチーノを握りしめていて、訳も分からずとりあえずポンデリングをひとくち齧ったのを覚えている。

ハルが歩道橋の真ん中で止まる。
つられて、私も足を止める。

「ユメちゃんは明日卒業するの?」

私は何も答えない。
車の通らない歩道橋の下では小学生くらいの子供たちが数人でサッカーをしている。
キャアキャアと楽しそうな声だけが聞こえる。

何処にでもあるただの寂れた歩道橋。
何処にでもあるような平和な街並み。
なのにここには大人だけがいない。

「向こうの世界では、選挙権が18歳以上に引き下げられるんだって」
「へぇ。詳しいね」
「友達がよく僕に手紙をくれるんだ」

そうだ。ハルの一人称は“僕”だった。
なんだか不思議な気持ちになる。

「ユメちゃんはね」

ハルがまた歩き出す。
それに合わせて私も一歩踏み出す。

「ユメちゃんはね、卒業するべきだよ」

何それ。なんか、ヤな言い方。
まるで自分はここに残るみたいじゃない。
少しだけムッとして言い返す。

「私だけ、あの世界に戻れって言うの?」

ハルは何も言わない。
先を歩くその背中に私は言葉を投げつける。

「世界は他人で溢れてるの。学校っていう狭苦しい虫かごの中に飼われた私たちはどうなると思う?食い潰されて、終わり。だったらいっそこのまま、親も教師も、大人だけがいないこっちの世界で生きてく方がよっぽど生きやすいじゃない」

ハルの足が止まる。
歩道橋を降り終わった私たちは、数日前に落ちてきた東京タワーの目の前にいる。
その東京タワーに向かってハルが叫ぶ。サッカーをしていた少年たちが振り返る。

「『少年も残酷、少女も残酷です。優しさなどというものは、大人の狡さと一緒にしか育っていかないものです』!!!」

何時か何処かで聞いたセリフ。
ハルはよく本を読んでいた。
教室でも、帰り道に寄ったミスドでも、スタバでも。
きっとその本の一節だろう。
詳しいことはあまりよく思い出せないけれど。

ハルの大きな目が私を捉える。
色素の薄い、透き通った茶色の瞳。

「そうだよ。大人は狡いんだよ。
僕たちが一人で本を読む、一人で音楽を聴く、一人で街を歩く。実際にやってみれば何てことない。全然惨めなことなんかじゃない。なのに、学校にいるとそんな当然のこともわからなくなっちゃうんだ。一人でいることが、まるでとんでもない罪であるかのように感じるようになって、僕たちは皆、それを恐れる。嫌いな人間と友好関係を築かなくちゃいけなくなったり、そいつらの為に共通の敵をでっち上げたりしなくちゃいけない。大人たちは勘違いしている。そういった処世術は僕たちの方が強く要求されているのに、大人たちは、自分の専売特許のようにそれをひけらかす。くだらないよ、ほんと」

ハルが自嘲気味にハハッと笑う。
その横顔が、一瞬なんだかとても大人っぽく見えた。

そして、こっちに来てからずっと私の頭には靄がかかっているように何かがボンヤリと漂ってる。それと引き換えに私は何か大事なことを忘れている気がする。何かとても、大事なことを。

「でも世界ってのは、僕たちが思う程いいもんでも、悪いもんでもないからさ…」

そこでハルがひとつ深呼吸をする。
ハルが食べてるチューイングガムの微かな葡萄の香り。薄紫色の甘い匂い。

「眼って、結局なんなんだと思う?」

ハルがプクーッと膨らませたガムがパチンと弾ける。

「なんだろう……神?」
「ふふ。ゴッド!」
「ゴッド!!!」
「違うよ」
「違うのかよ」

アッハッハと二人で笑う。
特に何にも面白いことなんて無いけど、私たちは笑う。

「…眼はね、見ているの。頑張ってる僕も。頑張ってない僕も」
「監視員なの?」
「違うよ」
「じゃあ何」
「審査員だよ」

そう言ってハルは空を見上げた。

私は止めようとしたけれど、遅かった。ハルの首がスローモーションのように、角度を変えてゆく。
怖くなって私は下を向いて目をきつく瞑った。

数秒後、聞こえたのはハルの笑い声。

「ユメちゃん、大丈夫だよ」

その声に、ゆっくりと顔を上げる。
目を開けてみると、アッハッハと笑うハルの手に一通の手紙。なんの色気も可愛さもない、真っ白な無地の封筒。

「落ちてきた」

カサカサとハルがそれを開ける。
私は隣からそれを覗き込む。

『ハルへ。

元気にしてますか。
こちらは地獄そのものです。
それでも私は頑張ります。
不安よりも光を信じることにしたので、これはきっとすごく地道で辛いこともあるかもしれないけれど、グリコとダルマさんが転んだをふたつしていると思うことにしました。
じゃんけん、たまには負けてよね、………』

そこまで読んだところでハルがパタンと手紙を閉じる。

「はいダメ。おしまい」
「えー」

まだ途中なのに。
悪戯な笑みを浮かべるハル。

「誰から?」
「友達」
「何これ。決意表明?」
「うん」
「地獄ですってよ」
「ですってね」

ふふふ、と笑う。
特に面白いことはないけど。

「ていうか、こんなもんなの?眼って。もっとでっかいのが落ちてくると思ってた」
「ズドーンって?」
「ズッドーンって」
「人によるんだよ」
「ふぅん」

私も空を見ようとして首を動かしたらハルに止められた。頭をグッと抑えられる。

「ユメちゃんは、ダメだよ」

「なんで」
「なんでも」
「ケチ」
「なんとでも言え」

アハハと笑って、二人でまた歩き出す。

「ユメちゃんが見たら多分、3トントラックが落ちてくるよ」
「ヒノノニトン?」
「だから、3トンだってば」
「トントントントン?」
「ヒノノニトン」

くふふ。あはは。

「ジャイアントパンダがいいなあ」
「パンダ好きだっけ?」
「ジャイアント?」
「馬場?」
「アポー」

くふふ。あはは。アポー。アポー。

「明日一緒に見ようよ」
「明日なら私も見ていいの?」
「卒業してからならね」
「スタバ行く?」
「行かない」
「珍しい」
「僕はもう、ミスドにもスタバにもいかないよ」
「ふうん」

二人並んで歩く楽しい帰り道。
いつものことのようにも感じたし、なんだかとても懐かしい気もする。

ゆっくりと下る坂道をハルと歩く。
日の差さないこの世界では花は咲かない。街路樹の桜の樹には蕾すら付いていない。

「春になれば花は咲くの。旅をすれば、人と会う。やるべきことをして、なりたいものになって、幸福を追い求めても良いんだよ」

「なにそれ」
「僕の格言」
「へえ」
「ユメちゃんに贈るよ」
「ありがと」

駅前のミスドを通り過ぎる。
あ、本当に寄らないんだ。
ちらっとハルを見たら、ハルもこっちを見ていた。ハルの唇は、ピンク色っていうよりも桜色だな、なんて思う。それがゆっくりと動く。

「人が死ぬのってどんな時だと思う?」

「心臓が止まった時?」
「物理的にじゃなくって」
「えー。何?」

澄んだ灰色の風が吹く。ハルの声が響く。

「忘れられた時だよ」

何処からかパッヘルベルのカノンが聴こえてきた。ピアノ調の綺麗な音色。

「え?」
「だから、まだ生きてるよ」

ハルがぐうーっと伸びをする。

「誰か身内でも亡くなったの?」
「ふふふ。うん」

私はハルを見る。
いやいや、笑い事じゃないって。

ハッとして前を見るともくもくと灰色の煙が上がっている。
それとは裏腹に私の頭の中の靄みたいなものが、すーっと晴れていく気がした。

そして、私は思い出した。

カノンの旋律にのって、散らばった記憶が呼び起こされる。
葬儀場、登っていく灰色の煙、ハルの白い顔、薄汚れたミスドの店内とポンデリング。
ピアノの音が止む。



そうだ。ハルは死んだんだ。



ハルが死んだから、私は学校に通わなくなったんだ。

「そうか…」
「どうしたの?」
「ハルが死んだことを忘れていた」
「うん。ごめんね、死んじゃって」
「…ハル」
「ユメちゃんはね、生きなきゃダメなんだよ」

涙が溢れそうになって、慌てて上を向く。数時間前には馬鹿にしてたのに。上を向いても涙は溢れて、その上、耳に入るから鬱陶しいのに。
見上げたら空と眼が合った、気がした。実際そこに大きな眼なんて無かった。灰色の空の一部がキランと光って、落ちてきたのはポンデリングと抹茶フラペチーノ。

「合格だって」

そう言ってハルが、私の手からポンデリングとフラペチーノを奪う。ポンデリングをひとくち齧る。

あぁ。そう言えばこれはハルの大好物だったんだ。
ミスドに行ったらポンデリング、スタバに行ったら抹茶フラペチーノ。ハルの頼むものはいつも決まってた。

「さよならだね」
「うん」

頬を濡らした雫を手で拭って、「じゃあね」ってハルが言うから、私は「またね」って返した。
これがせめてもの私の祈り。

涙でハルが見えなくなって、目を開けた。
自分の部屋の、ベットの中だった。
完結したようで完結してない私の夢は、これからもずっと胸に残る。
ハルはきっと、私の頭を、胸を、覆い尽くしてなかなか晴れない霧のように漂っていくんだ。これからも。

宙ぶらりんの空中ブランコは少し風を受けただけでグラグラと揺れて、不安定で危ない。ハルは、私の心に寄生するように、包み込むように、いつまでも風化されず、感情はあたたかいまま。

私は一筋、頬に光る涙を拭って起き上がる。

これまでのことを思い出すために頭を働かせた。

ハルの葬式から、私はずっとこんな感じだ。

葬式というのは聞いていた通り、地獄だった。涙を流した量の多い人が、“いい人”。くだらない。私みたいに人前で涙を流せない人はどうしたらいいんだ。

神様といわれるものが存在するのならば是非問いたい。
ねぇ神様。どうして、何もかも終わってしまう瞬間が、同等に美しいのでしょうか。
ハルは、誰よりも、何よりも美しいはずなのに。

やっぱりこの世界は地獄だ。
でもどうして、私は今、この地獄を滑稽で美しく感じているのだろう。

陽だまりになって消えていってしまう日々のように、本当は何もない人ばかりで、本当は何もなかったはずのものが、数秒前に作られては消えていく。そんな矛盾の中の儚さ。

見上げるともくもくと煙が出てきている。
黒と白が混ざれば灰になって共に消えてゆく。
ハルは、あの水色の空に溶けていってしまった。


ハルの葬式が終わってから私は、学校に行く代わりに汚い街の真ん中の薄汚れたミスドの店内で、ハルをずっと待っていた。毎日、毎日。本を読む振りをしてハルを待っている。本なんか滅多に読まないのに。ていうか、実際読んでないけれど。ただ持っているだけ。我ながら迫真の演技。
そんな中でパラリと捲ったページの一文に目がいく。
『少年も残酷、少女も残酷です。優しさなどというものは、大人の狡さと一緒にしか育っていかないものです』って。へえ。

毎日どれだけ待ってもハルはこなかった。二人がけのテーブルはいつも片方しか埋まらない。毎回ポンデリングを3つも頼んでるのに。お小遣いが飛んでくっつーの。家に帰って不貞寝をした。ハルのバーカ、いい加減出てこいって。そして起きたら、アレ?ここ何処?って。ポンデリングと抹茶フラペチーノを持ったまま、果てしないくらいのアホ面。だったと思う。

ハルが、呼んでくれたんでしょ。
会えて良かったよ。
ありがとう、ハル。

着替えて、家を出る。
地面に影がある。
道端に咲く小さな花。
爽やかな温い風。

3ヶ月振りの制服と3ヶ月振りの登校。だって、今日は卒業式だから。
私は私を卒業するの。たぶん。

ゆっくりと下る坂道。
もう隣にハルはいない。
そんなことは分かってる。
やっぱり、スタートラインに立つのはひとりきりだ。
私は3ヶ月前とひとつも変わらない目をしていて、でも確実に歩いている。歩けば景色は変わる。
風がふわっと吹いて、目の前に薄ピンク色の花びらがはらはらと舞う。ああ、桜だ。

『春になれば花は咲くの。旅をすれば、人と会う。やるべきことをして、なりたいものになって、幸福を追い求めても良いんだよ』

ねぇ、ハル。
私は少しだけ春を好きになれそうだよ。

ふと空を見上げてみる。そこに眼は無い。もちろん、ヒノノニトンもジャイアントパンダもジャイアント馬場も落ちてこない。
パレットに薄い水色を引き延ばしたような色だった。少しだけ眩しい。
その水色のどこかにいるであろうハルに心の中で手紙を書く。

『ハルへ。

元気にしてますか。
こちらは地獄そのものです。
それでも私は頑張ります。
不安よりも光を信じることにしたので、これはきっとすごく地道で辛いこともあるかもしれないけれど、グリコとダルマさんが転んだをふたつしていると思うことにしました。
じゃんけん、たまには負けてよね。

こちらはもう春です。
身体中に春が駆け巡りました。
この世界は地獄だけれど、色彩豊かな季節があるの。
見える?桜色。
ねぇ、ハルまであと何歩? 』


小説の一節は三島由紀夫「不道徳教育講座」から引用。


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