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『つぶやきに逃げたっていい』

記事が書けない日がある。
それはスランプとかそんなかっこいいものじゃなくて、仕事が立て込んだりプライベートがやたら忙しかったりして「今日は書きたくないなぁ、書けないなぁ」くらいの浅いもの。

たまに本当に言葉が出てこなくて「まじで何も思い浮かばないどうしよう」ってなる時もあるけど、それが続く時は体調を崩す一歩手前だと私はこの前学んだ。

そんな時、どうするか、って。

書かない人もいるだろう。
クオリティの低い記事を出すなら休んでしまおう、って、そう思うのはよくわかる。
ある程度自分が納得できた記事じゃないと表に出したくない、って、その気持ちはとてもすごいことだ。
だってそれだけ、自分の記事にプライドを持ってるってことだから。

自分が発信する言葉に対してちゃんと責任を感じていて、その重要性というか軽々しく言葉を振りかざすことの痛みを知っている。
だからこそ、きっと「書かないでおこう」という選択になるのだと思う。

何かしら「書こう」とする人もいるだろう。
クオリティが多少低くなったとしても「書くこと」自体に意義を感じている。
それもまたすごいことだと思う。
何かを続けられるというのは才能だ。
例え短い記事であれ“つぶやき“であれ、始めたものを止めたくない、という気持ちは尊重されてほしいと思うし、その信念はとても尊いと思う。

私はどちらも尊敬している。
自己を追求して高みを目指すことはそうそう出来ることではないし、自己の信念に従って長い間「書くこと」をやめない人も尊敬する。

私のやってることは後者だが、どちらかというと私の“つぶやき“は日記に近いから、別に大袈裟な信念があるわけじゃない。
もちろん投稿を途切れさせたくないって気持ちもあることは否定しないけど、普段からあまりストックを用意しない私はすぐに記事が枯渇する。
そんな時は日記を書く。

140文字程度の日記。
素人の日記を誰が読みたいんだ、って言う人もいるけれど、日記はあくまで日記だから。
誰かに読んでいただく為に書いているものじゃないんだ、そもそも。

“つぶやき“じゃない“記事“は、少なからず誰かに読んでほしくて書いた文章で、誰かに読まれることを前提としているから、どんなテーマであれ、「書き切った」と自分が納得しなければ世に出さない。
そこで妥協したら書き手として終わりだから、そこの線引きを譲るつもりはない。

でも“つぶやき“は日記だから、別にクオリティなんか気にしない。
記事から逃げて茶を濁してるのも自覚してるけど、でもその日記だって私が思ったことだ。
だからただそれを素直に書けばいいと気づいた。

「そんなの書かなきゃいいじゃん」って思う人もいるだろうけど、「そんなのただ逃げてるだけじゃん」って思う人もいるだろうけど、それもひとつの意見だけど。

メリハリなんだ、たぶん。
一生懸命走り続けるのって疲れるから。
たまには歩いたり止まったりしたい。
そんな感じ。

だから日記すら思いつかなくなったら私は投稿をやめるし、その時はきっとnoteで書きたいことを書き切ったってことなんだと思う。
それはまだ先のことだけど、出来るだけいろんなことを書いていきたいな。

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