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『パニック障害になった話(2)』〜襲いくる不安との戦い〜

この話にはパニック障害の発作の表現があります。また記事の中で私は自己判断で自分がパニック障害だと判断していますが、皆さんはどうか真似せず、おかしいなと思ったらすぐに病院に行ってください。

電車の中で不安に襲われた次の日。
私は母に頭を下げていた。
「電車が怖いから、店まで送って行ってほしい」
こんな子供じみた理由で頼むのは嫌だったが、私が昨日から体調を崩していた事を知っていた母は、快く車を出してくれた。

車に乗り込み、シートベルトを締める。
エンジンをかけ、車が走り出そうとするその時だった。 

ごめん、やっぱ今日行かない

ほぼ反射のように、私はそう母に告げる。
「アンタどうしたの!?顔真っ青だよ!」
真っ青な顔でガクガクと震える私を見て、母は慌ててエンジンを切る。
そう、再びあの不安が襲ってきたのである
母に抱えられながら家に戻る頃には不安は止んでいたが、ベッドに転がって店に休みの電話を入れるその時には、別の不安が首をもたげていた。

1.パニック障害を知る


私、車に乗れなくなってる

これはまずいと、慌ててPCでこの不安の原因を探り始める。
自己判断ではあったが、私はこの現象がほぼ心の病であることに当たりをつけていた。
理由はいくつかあるが、
•体の痛みがほぼなかったこと
•遅くとも10分以内に発作が収まっていたこと
•発作が収まった後は普通に動けていたこと
•前兆現象(強烈な不安感、血の気の引く感じ)が明確にあったこと

以上の4点である。
身体的なものであれば、何かしら痛みがあってもおかしくないし、発作が収まった後も、普通に体が動くのはありえないと思った。

そして症状から心の病を調べていた私は、ついにその病名を見つける。
「……パニック障害?」
鬱などはよく聞く単語であるが、私はそのパニック障害という病名をその時初めて知った。

パニック障害とは。
突然理由もなく、動機、発汗、窒息感、吐き気、手足の震えといった発作(パニック発作)を引き起こし、そのために生活に支障が出ている状態をパニック障害と言います。

『厚生労働省 パニック障害の項より抜粋』

これだーーー!!!と私はPCの画面にかじりついた。何ひとつ自分の状態がわからないよりも、まず敵を知ることが出来れば対処法はある。
何も解決していない状態ではあるが、ほんの少し目の前のモヤが晴れる気分だった。

どうやらこの病気は突如発症し、とてつもない強烈な不安感と、死んでしまうのではないかという恐怖、それに伴って動悸や震えなどの身体的な症状を起こす病気らしい。
まるっきり私の症状と合致する。

そしてそのページを読み終わる頃には、私の疑念は確信に変わっていた。
私は『パニック障害』になったのだと。

2.病院に行かないという選択


傷病名に検討がつき、次に私が考えたのは、病院に行くか、それとも行かないのか、という選択である。私は自慢ではないが病院が大嫌いで、よほど歯が痛いとか熱が高いとかでないと病院には行かない。
これは今でもそうであるが、その時の私も病院に行くかどうかは限界まで悩んだ。

心の病であるからには、行くのは恐らく心療内科ないし精神科である。そこで処方された薬を飲んで、この病気と戦うことになるのだろう。
だが、その当時の私には心療内科は正直ハードルが高かったし、こう言っては申し訳ないが色々と理由があり、あまり良い印象がなかった。
母や旦那は私の意思を尊重すると言ってくれていたので、後は私の考えひとつだった。

考えに考え抜いて、私は結局、病院には行かず、この病気を治す事を決意する

理由は2つある。
ひとつは、薬に頼っても結局、行動療法、心理療法が物を言いそうな病気であったこと。
もうひとつは、この病気になる直前の健康診断で、身体には何も問題がないことがわかっていたこと。

身体に異常がないならば、自己診断ではあるが、もう病気の分類はこれでいいだろう。
そして薬を服用してただ治す病気でないならば、薬なんか飲みたくない。そんなしょうもない理由ではあるが、私は周りの力も借りて、自力でこの病気と立ち向かうことに決めたのである。

3.予期不安との戦い

予期不安とは。
パニック発作を繰り返すうちに、発作のない時も次の発作を恐れるようになります。「また起きるのではないか」「次はもっと強い発作ではないか」といった不安が消えなくなります。

『厚生労働省 パニック障害の項より抜粋』

私の症状の中で、正直1番キツイのはこの予期不安である。ひどい時は1日中、何をしてる時もコイツが後ろに付き纏う。
ただ私の場合は完全に安心できる(発作を起こしてもなんの問題も起こらない)場所として、自宅を自分の中に設定している状態なので、今となっては基本的に自宅にいる時は解放されるのだが、一歩外に出てしまえば、コレと手を繋いで歩いている状態になってしまう。最初の頃は、それが何より辛かった。

発作を起こす起こさないに関わらず「また発作が起きるかもしれない」という不安。
どこにいても、何をしてても、不意にその不安はやってくる。
それ以外にも色々と、不安は尽きることがない。

私は本当に治るのか、車に乗れるようになるのか

発症後2週間、無理やり休みをもぎ取った私は、いつだってそんな不安と闘っていた。
私が住んでいる場所は田舎なので、どこに行くにも車は必須。ちょっとした買い物にも、母の通院にも、とにかく車に乗れなければ話にならない。
電車は置いておいても、早い段階で車に乗れるようにならなければ。この頃は気ばっかり焦っていた。

そんな私を助けてくれたのが、当時彼氏だった旦那と、我が母である
彼は自分が持病を患っている事もあって、病気というものに対して抵抗や偏見がなかった。私が精神的な病を患ったかもしれないと知ると、彼はパニック障害についてがむしゃらに勉強し、色々と治療法を調べてくれていた。
そして、私と同じ結論に辿り着く。
薬に頼らずに治すなら曝露療法しかない

3.曝露療法とは


段階的曝露療法
とも言うらしいが、パニック障害の治療法を調べる中で、自力で出来そうだな、と思ったのはコレしかなかった。
曝露療法とはつまり、自分が苦手とする場所(発作を起こした場所)にあえて自分自身を曝すことで、少しずつ苦手な場所を克服する、慣れていくという方法。もちろんそれには段階があって、例えば信用できる誰かと一緒に近所を歩いてみるとか、それが出来たら今度はひとりで買い物に行ってみるとか、段階や順序を踏んで、少しずつ慣らしていく。
そうして成功体験を積み重ねて、自分に自信をつけて。いつかはそれが普通のことになって、発作から解放される
大変そうな道のりであったが、薬に頼らない以上、多少のリスクを負ってでも治すにはこの方法しかなかった。

だがひとつ問題があった。
私には慣らしていくだけの時間がなかったのである

4.焦る私を救った母の言葉と周りの協力


私の休暇は2週間しかない。
そして、恐らくそれを超えて休みを取ればクビにされるであろうことは目に見えていた。
例えどんな理由であっても。
母が倒れて入院した時「明日から店に出てこい」と社長に言われた事を私は忘れていなかった。

つまり2週間の間に、車か電車に乗れるようにならなければアウトなのである。
どうしよう、と頭を抱えた。
いくらなんでも期間が短すぎる
パニック障害の事例を調べていく中で、私はこの病気と何年も闘っている人の事例をいくつか読んでいたこともあり、少なくとも年単位で闘っていくべき病気なのだと考えていた。

けれど、現実の時間は止まらない。
私が家から外に出ようと玄関のドアに手をかけたまま、恐ろしくてうずくまるその時も、時間は刻一刻と時を刻み続けるのである。

どうしよう、どうしたら、と。
気が焦れば焦るほど、発作は徐々に悪化していった。
家にひとりでいる時も、真夜中にふと目を覚ました時も、お風呂に入っている時も。
もうどうにもならなくなって頭がおかしくなりそうになっていた時、そんな私を見かねた母が言った。

そんなに辛そうな顔をしてする仕事なら、もういつでも辞めていいと思いなさい」と。
徐々に精神を磨耗していく私を見て、母は母で色々考えていたらしい。
「私はアンタじゃないから、辞めた方がいいとも、辞めなさいとも言えない。でも、いつ辞めたっていいんだと思いなさい。
仕事辞めたって、別に誰かが死ぬわけじゃないんだから
そしたら少しは楽になるでしょう、と。
私と30年付き合ってきた母は言った。

焦っていた心が、少しだけ静まった気がした。

そしてその日、私の様子を見に来た旦那も言う。
「俺はそんな職場今すぐに辞めた方がいいと思う。心を壊すほどに追い詰められてるって明らかにおかしいし、今はそれが当たり前になっているから、どんなに異常なことなのか気づかないだけだと思う。
そんなところにいたって何の利益にもならないし、こうなった以上、とっとと辞める以外の選択肢があるとも思えない。
だけど、それでも続けたいって言うなら、ひとりで通えるようになるまで俺が毎日送り迎えしてあげる」
ただし、自分の進退を考えながら働くこと。
それが旦那の出した条件だった。

あくまで私の意思に任せる母と、少し強引に退職を勧める旦那。ふたりの言葉は正反対なものであったけど、どちらも私を思い量ってくれているのは明白だった。
ひとりで悩んで、ひとりで闘う必要はないのだと、私はその時に初めて悟った

5.みんなで一緒に


その言葉を受けて、私は2人に頼る事を決めた。
夜勤明けの旦那に頼むのは申し訳なかったが毎日の送迎を頼み、母には外に出られない今の状態を謝罪し、少しずつ治していく為に協力を仰いだ。

結局4年経った今でも2人には協力してもらったり我慢させてしまったりする事も多くて、未だに申し訳ないなと思うことがたくさんある。
でも何の文句も言わずに、ほんの少しずつ出来ることが増える私を見て、一緒に喜んでくれる2人がいなかったら、きっと私はもう、ここにいなかったのかもしれない。

発症から1週間。
ようやく私は治療に向けて歩き出すことになる。

ひとりではなくみんなで。
次回は、もう少し具体的に、私が取った曝露療法について書いていこうと思う。







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