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『パニック障害になった話(7)』〜スタートラインに立つ日:前編〜

※この記事にはパニック障害についての記述、発作についての話が出てきます。フラッシュバックに気をつけてお読みください。

前回の記事はこちら↓↓

前回の記事で、私が目標を設定したことを覚えておられるだろうか。
『50%』祖父母の墓参りにいく
『70%』新幹線で移動が出来る
『90%』県外に旅行に行く
『100%』泊まりがけでV6のコンサートに行く

目標を掲げてみたものの、この辺はまア正直無理だと思っていたし、達成するにしても果たして何年の時がかかることやら。
達成したあかつきには、自分で自分に完治証明書でも出してやろうかと考えていたけれど、そんな風に労ってやれる時が来るのかどうか。
まだまだ遠い道のりを眺めて苦笑いしていた。
そう、あの日までは

1.2021年3月12日

その日、私はいつものように仕事をしていた。
転職先の仕事も3年目。出来ることもそれなりに増えて、疫病のせいで先延ばしになっていた、正社員を目指す為の道筋をつけるべきだと考えている頃だった。
確かあの瞬間は次月に提出しなければいけない考課表を受け取って、それについて上司と色々話している時だったと思う。

「リトさん!大変!」
休憩中だった同僚が、血相変えて事務所に飛び込んできた。
「どうしたの、私なんかやらかした?」
「違うの!V6が……」

“V6が、解散するんだって!“

サーッと、血の気が引いた。
いやいやそんな馬鹿な、と。
なんで急にそんなことに。

誇張じゃなく目の前が真っ白になった。
膝の力が抜けて、座り込んでしまいそうになった。
未だ時々襲われるパニック症状の時の何倍も。
胸がギュッと締め付けられて苦しくなった。

「いやぁ、そんな、冗談でしょ……」
「冗談じゃないみたいよ」
同僚の発言を受けた上司が、ほれ、と見せてくれたスマホの画面には。
大文字でハッキリと“V6解散!“の文字が踊っていた

私のV6好きは職場でも有名だった。
というかこの職場、何の因果かめちゃくちゃ色んなオタクが存在していて。アイドルからアニメから乙女ゲームからバンドから漫画まで、ありとあらゆるジャンルを網羅していたものだから、私の半分上がりかけたジャニーズ愛なんて可愛いレベルだった。

推しが出るライブがあれば有給を取り、新作ゲームが出れば半休を取るような職場。
それが許される場所にいるというのは、今回想してもありがたいことだと思う。

あまりに私が真っ青になるものだから、発作を起こすんじゃないかと心配した上司に肩を押されて、椅子に無理やり座らされて5分。
ポカンと放心状態になっていた私はようやく正気を取り戻した。

「だいじょうぶ?」
同僚が心配そうな顔で覗き込む。
マスクの中で小さく「だいじょうぶ」と答えて、私は苦く笑った。
「へーき、へーき。私の推しは生き残るわけだし」
「辞めちゃうのは森田君だけだもんね」
「そうそう。ほら、あの人達も年齢が年齢だし、コロナのせいでコンサートも出来てないし、まア、こうなるのも必然というか……」
なんとか自分を納得させようと言葉を並べて、私はその衝撃を乗り切ろうと努力する。
だが結局その日は、全くと言っていいほど仕事にならなかった。

2.20年分の誇りに懸けて


時はコロナ禍といえど、私の長年のV6オタクセンサーが告げていた。
あの人達は絶対やる。解散コンサートを“と。

それは一種の信頼だった。
あの6人が、何もせずに終わるわけがない。
誰よりもファンのことを考えてくれている6人が、三宅健が、井ノ原快彦が。ただひとりのファンにも会わず、何も告げず、いなくなることを良しとするわけがない
私はそう信じていた。

だが今の状態で、もし解散コンサートが発表されたとして。
私はそこに辿り着けるのか?
このパニックという爆弾を抱えたまま、未だに足を踏み入れられもしない新幹線に乗って。
彼らの待つ場所に辿り着けるのか?と、甚だ疑問に感じていた。

このままでは無理だろう。
何をどう頑張っても。
理解のある親と配偶者、そして職場というぬるま湯に浸かり切った今の現状では。
逆立ちしたって行けるわけがないと思った。

私の今の環境は理想そのものである。
そしてそれに甘えて、のんびり治していけばいいんだと自分自身も思っていた。
いやしかし、病気を患った人にとっては、きっとそれが正解で。焦ることなく、自分のペースで、ゆっくりと体と心を労りながら治していく。
それでよかったはずなのだ。

けれどそれでは間に合わない
彼らに会えない。
6人が並び立つ最後の瞬間を、この目に焼き付けることが出来ない。

それでいいのか私の20年!?

V6に20年という長い間、青春を捧げてきたこれまでの自分が、拳を突き上げていた。
このまま解散に対する現実感も持てずに、ただダラダラと日々を過ごして。
20年間必死で追いかけてきた坂本昌行を、こんな遠い場所から見送るのか!!と、叫ぶ声が聞こえた気がした。

“ーー行こう

その声が聞こえた瞬間。私はそう心に決めた。
そこに至るまでにどんなに辛い思いをしても、どんな苦しみを得ようとも。
6人が待つ場所に必ず辿り着いてみせる

そして万感の思いで、彼らの旅立ちを見送るのだ。それが、私がファンとして6人に出来る、オタクとしての最後の矜持だと確信したから。

3.残された猶予


V6のデビュー記念日は11月1日。
そして解散するその日も11月1日である。
私はこの日に解散コンサートをぶつけてくるだろうと確信していた
ツアーで回ったとしても、確実にこの日がオーラスになると信じて疑わなかった。

そう考えればまだ半年以上の猶予がある。
大丈夫。初めて発作を起こしたあの日を思い出せ。
その後2週間で前の職場に復帰したことを考えれば何ということはない。

私が手始めに克服しようと決めたのが目標の『50%』祖父母の墓参りである。
前回の記事で述べた通り、祖父母の墓は我が県から2つ県を跨いだ場所にある。まずは車で、自分が耐えられる距離を純粋に伸ばすこと。
それが必要不可欠だと考えた。

片道2時間として、往復で4時間。
それだけの時間、車に乗っていられれば、まだ希望はある。
逆にそれすら耐えられないのであれば、コンサート中に倒れる可能性も考えると恐らく行くべきではない。彼らの門出を汚すべきではない。
祖父母の墓参りに行けなかったその時は。

私はコンサートに行くことをキッパリと諦めようと決めた

ところで。
パニック障害をお持ちの皆さんは、発作時の感覚がなんとなくわかると思う。
これは人それぞれだと思うが、私の場合はまず足からくる
ヒヤッとした冷たい感覚が、ゾワゾワと足から上に上がってくる。
そしてその冷たさが腹に到達して、お腹のあたりがもぞもぞとし始める。
そうすると手足の先がガクガクと震えてきて、心臓が早鐘を打ち始めるのだ。
この、足からのぼってくるなんとも言えない冷たい感覚が、私は未だに怖くて仕方なかった。

4.周りを信じること


だがそれは裏を返せば、“発作が来る瞬間がわかる“ということである。
ならばその瞬間に、周りに助けを求めてしまえばいいのではないかと私は気づいた。そして、“助けを求めれば必ず助けてくれる“と。
周りを信用して信頼する心が、今圧倒的に欠けていることに私は気づいた。

信頼とは、相手を信じて頼ること
なまじ症状が昔よりもマシになり、自分1人で出来ることが増えた今だから、発症当時の誰かに頼り切っていた自分を忘れかけていた。
あの時は母に頼り、旦那に迷惑をかけ、それでも確実に一歩ずつ日々を過ごしていた。
それがいつからか“周りに迷惑をかけてはいけない。困らせてはいけない“にすり替わってしまっていたのである。

もう1度。
周りの人間の力を借りる日が近づいていた。

今回は前編。次回は後編となります。
だいぶ長くなる予定です。

もしもサポートをいただけたら。 旦那(´・ω・`)のおかず🍖が1品増えるか、母(。・ω・。)のおやつ🍫がひとつ増えるか、嫁( ゚д゚)のプリン🍮が冷蔵庫に1個増えます。たぶん。