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『群青色を身にまとって』

私が父を亡くしたのは、高校生の頃だ。
もう15年以上も前になるので、正確に「どれくらい前になるのか?」と訊ねられると、正直答えに窮する部分があるのだが、10代の頃に亡くなったのは間違いないので、父は、私の成人した姿を見ることはなかった。

私の成人式。
振袖姿の私を見守ってくれたのは何人かいる叔母たちと、祖父母、そして私の母だった。

AbemaPrimeに出演する際に、家族3人で写っている写真が欲しい、と頼まれたので、タンスにしまわれたアルバムを引っ張り出しているとき、私はその写真を見つけた。

振袖姿の私と、祖父母が笑顔でうつっている写真。

幸せそうだった。
群青色の派手な振袖に“着られて“、成人式帰りだったから、若干疲れた顔をしつつも楽しそうに笑っている私と、本当に嬉しそうに、顔をくしゃくしゃにして笑っている祖父母。

その写真を見ながら、思い出す。

「そうか、この振袖も、本来ならば着られなかったはずなんだよな」と。

『憧れのラピスラズリ』

父を亡くしてから、私と母は、お世辞にも裕福な暮らしであるとは言えなかった。

食うものに困ることはなかったが、言い換えれば、それ以外にはよく困っていた。

家賃が払えない、電気代が払えない。
それまで住んでいた家を追い出され、生活の一切合切を父に頼り切っていた私たちが、ようやく世間一般のまともな暮らしができるようになるまでには、ゆうに数年の月日を要した。

私が20歳(遅生まれなので、実際にはまだ19歳だったけど)になったのは、ちょうどそんな時期。
明日の生活もままならないような暮らしの中で、私は成人になった。

父が亡くなり、生活が苦しくなった時点で、私は成人式に出席することを諦めていた。

ここから生活を立て直すのは長い月日がかかるであろうこともわかっていたし、かといって私のバイトの稼ぎでは、多少生活の足しになれば良い方で、自分が綺麗な振袖を着て、友人たちと共に、成人式で笑っているビジョンがどうしたって思い浮かばなかった。

それどころじゃなかった。
生きていくために必死だった。

だから諦めていたし、それで良いと思っていた。

でも、母は違ったんだろう。

一応、こんなんでもひとり娘だから。
晴れ姿をひと目見たい、と。
父の代わりに見届けたいと、きっと思ってくれていたんだと思う。

成人する年の、前の年だったかな。
母が私を、貸衣装のお店に連れ出した。

成人式の着物を、貸し出しているお店だった。

最初は嫌々ついていった私だったけど、店員さんにおすすめされるまま、アレコレと振袖を合わせているうちに楽しくなってきて、「これがいいかな、でも、こっちもいいかな」と、母と一緒にワイワイ話しながら振袖を見て歩いた。

そこで目に留まったのが、群青色の振袖だった。

『振袖を諦めた日』

まるでラピスラズリを砕いて、そのまま散りばめたような、鮮やかな群青色だった。

私は青が好きだ。

抜けるような空の色も、太陽に透ける海の色も。

目が覚めるようなその青は、まさしく私の愛する彼の色だった。

「コレ、いいなぁ」
その振袖を手に取って、しみじみと呟いた私の声を聞いていたのかいないのか。

母が店員さんに値段を訊ねていた。

にこやかに答える店員さんとは対照的に、みるみるうちに曇っていく母の顔を見て、「ああ、高いんだな」と私は悟った。

食うには困らないが、その他のものには困っているような生活の中で、それは贅沢品以外のなにものでもなかった。

「いいよ、私、成人式出ないから。会いたい友達もいないし、振袖も別に着たいワケじゃないし」

振袖から手を離して、私は笑顔で母に告げた。
笑えていたかはわからないけど。

少しでも母が気に病まないように、努めて明るく言って、私たちは逃げるようにお店を後にした。

別に、私は嘘は吐いちゃいない。
私は、嘘が嫌いだから。
学生時代、ほとんど学校に行っていなかった私に会いたい友達なんていないし、親友とは毎日のように顔を合わせていたし、振袖だって、もともと諦めていたから、最初から着るつもりなんてなかった。

今日だって、ただ母が「行こう」と誘うから、仕方なく付き合っただけだ。

だから、嘘じゃない。
嘘じゃないんだ、と言い聞かせる自分の心に、ほんの少しだけヒビが入ったような気がした。

『憧れのままで』

成人式の話を、振袖の話を、それから私と母がすることはなかった。

むしろあの時期、この話題はタブー視されていたような記憶がある。

TVでたまたま成人式が映ろうものなら、どちらともなくチャンネルを変えていたと思うし、なんかこう、触れられなかったのだ、お互いに。

私は未練がましくて嫌だったし、母は母で、私に対して申し訳なさみたいなのがあったと思う。

もどかしさというか。
どうにかしてやりたいのに、どうにも出来ない。
だから避けていた。
触れることなく、忘れてしまおうと思った。

あのとき見た群青色はまぶたの裏に焼き付いていたけど、それはただの憧れだから。
憧れは憧れのままで終わらせたほうが、幸せに違いないと、私はそう疑わなかった。

そうだな。
もし私の人生で、父を恨んだときがあるならば、もしかしたらこの時かもしれない。

どうしてここに居てくれないのか。
もしも父がいてくれたら、私もあの憧れの色を着て、なんの不安もなく笑顔で、キラキラした輝きの中に混ざることが出来たのかもしれないのに。

親不孝な話かもしれないけどね。

『祖父母と私』

このnoteで軽くお話したことがあるかもしれないが、父が存命の頃、私は一時期、祖父母の家に預けられていたことがある。

私はとてもお婆ちゃんっ子で、祖父母も私を初孫だと可愛がってくれていた。

まあこの祖父母も、我が家系の、というか母の両親だけあってとんでもなくファンキーな人たちなのだが、有体に言えばものすごく貧乏だった。

ギャンブルが好きな人たちだったので仕方ないのだが、宵越しの金は持たねえ!みたいな思考の人たちで、いつも子供たちや孫たちをハラハラさせているような。

でも、私はそんな祖父母が大好きだった。

あれはいつ頃だっただろうか。
私と母があの群青色の振袖を目にしてから、半年とか、そのくらいの月日が経った頃の話かもしれない。

私の携帯に、祖母から連絡があった。

「振袖のお金は婆ちゃんが出すから、成人式には好きなものを着て、出なさい」と。

いやいやいや。
そんな金どこにあんのよ?と私が訊ねても、祖母は答えず、とにかく「いいから振袖を着て成人式に出ろ」の一点ばり。

母の差し金だな、と勘づいたが、いくらなんでも、孫として迷惑はかけられない。

私が断り続けても、祖母は決して折れなかった。

そのうち、
「婆ちゃん、お前の晴れ姿を見るまで死ねないんだよ」と泣かれてしまえば、私も流石に「嫌だ」とは言えなくなって。

「わかったよ、着るよ!」と、売り言葉に買い言葉のように返事をしていた。

『群青色を身にまとって』

祖父母と、母と一緒に、もういちど、あの貸衣装のお店に足を運んだ。

最後の抵抗で、出来るだけ安いのを選ぼうと思っていた私の考えを見透かしたのか、祖母は私があの群青色を手に取るまで、「それは似合わない」だの「婆ちゃんこの色嫌い」だの、なんやかんや文句をつけて、決して私に妥協を許さなかった。

おかげで私はあの憧れた群青色を身にまとい、さまざまな色が飛び交う、キラキラした成人式に出席出来ることになった。

まあ、予想通り私が知る人間なんかほとんどいなくて、大して面白いものじゃなかったけど。

でも、一生の思い出にはなった。

あの日は雪だった。

朝から髪のセットや着付けやメイクや、やらなきゃいけないことが多くて、とにかく大変だったことを覚えている。

朝から降り続いた雪は、私が成人式から帰る頃にはやんでいたけど、積もった雪の上を草履で歩いて、祖父母の家に顔を出すと、婆ちゃんは感極まったように泣いた。

母も泣いた。私も泣いた。

ここに父がいないことだけが寂しかった。

父の仏壇の前で、「一緒に酒飲めなかったね」とひと言だけ恨み言を言った。

あれから15年。
私は今も生きている。

群青色を身にまとうことはもうないけど。
着せてくれた祖父母ももういないけど。

一応、今も幸せに生きているよ。

成人式が来ると思い出す。
私の、群青色の思い出。



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