トウガントラップ
先日私は、大根と、
三角の小さなはんぺんを3枚食べようとしていた。
夜勤時間が15時間目に差し掛かる頃、
検食が用意される。
腹が鳴る。
心が跳ねる。
廊下で時々小躍りする。
なんてったって、今日は大根だ。
私は大根を心底愛している。
検食前の私は、
スーパーナースに変貌を遂げる。
急変?まかせろ。
点滴漏れ?ルート確保。
なんの薬を飲んでいる?錠剤見れば一発さ。
クレーム?全て鎮めよう。
無敵だ。
皆が明け方げっそりと働く中、
M.eriは、すこぶる元気だ。
温かいご飯を控え、
幸せを感じている。
「よっ、下山女」
謎の喝采をもらいながら、
私は肩で風を切り、階段を駆け降りる。
(私はこよなく下山を愛している
※登る前から下山する参照)
私は食べる。
ここにいる全ての患者、スタッフよりも先に。
夜勤史上最大の悦に入る。
溢れる喜びを隠し、
着座する。静かに手を合わせる。
「頂きます」は心の中で。
メインは、大根とはんぺんの煮物。
カニカマ入りポテトサラダ。
小松菜と、エリンギの味噌汁。
絶妙に変なメニューだ。
私の食欲は、抑えられない。
まずは、大根だ。
コロンコロンと乱切りされている。
大根を箸でぶっ刺す。
なんと2個も。団子方式だ。
私は夢中だ。
一気に口に入れる。噛み締める。
はぬーん。
口の中が、はぬーんとしている。
はぬーん
はぬーんの反芻だ。
はぬーん
ダイコンジャナイ…
これは…
トウガンだ。
やられた。
トウガントラップだ!
しれっと大根に化けたトウガンだ。
トウガンは、ビタミンとカリウムを、多く含む9割が水分でできているウリ科の野菜だ。
「ナチュラルキラー細胞」という免疫細胞を活性化する作用をもたらす”サポニン”なる成分まで含まれている。
いいやつじゃないか。
イケスカナイ。
私はトウガンのことが嫌いだ。
口腔内はトウガン汚染されている。
ずっと、はぬーんってしてる。
私は悶えた。
口の中のはぬーんが、
私を侵食する。
私は一気に水を飲んだ。
はぬーんが、
薄く、広く伸びただけだった。
仲間が欲しい。
このエンドレス、
はぬーん飽和状態を誰かと共有したい。
いわば、”はぬーん、ハイ”である。
私は、箸を置いた。
「ね、誰か江口さんの
食事介助入れる人いるー?」
私はすっと挙手をする。
適任だろう。
今や、
朝食の献立を知り尽くした伝道師なのだから。
江口さんの隣に着席する。
このエリアには、30人ばかりの患者様が食事をしている。
この中には絶対にいる。
「トウガンはぬーん事変」
に直面するひとが。
私は、江口さんに狙いを定めた。
江口さんは、円背の強い、食べながらうとうと寝てしまうお婆様だ。
食べるのも遅く、
残念ながら時間がかかる。
江口さんは耳が遠い。
野太く、低い声で耳元で話しかける。
おはようございます。
「おはにょーん」
と、お返事を頂く。
まずは、視覚に訴える。
「ご覧ください。
これはなんの煮物でしょうか」
江口さんは答える。
「これは、大根とはんぺんだねぇ。」
「ほほーん」
いざ、実食。
答え合わせである。
江口さんは、目を瞑り、咀嚼している。
その道の匠のようだ。
「どうです?」
江口さんは、
くっちゃくちゃくっちゃくっちゃ
一生噛み合わないであろう入れ歯で
永遠に噛み締めている。
表情は変えない。
もう一度話しかけてみる。
「口の中が”はぬーん”としませんか?」
時間を置いて、江口さんは答える。
「うん、はぬーんとしているねぇ」
私はすかさず質問する。
「この、はぬーんとしている食べ物はなんですか?」
「このはぬーんとしている、食べ物は、トウガンだねぇ」
はぬーんと、
トウガンというアンサーを手に入れた。
リーチだ。
私は続ける。
「このはぬーんとした、トウガンはお好きですか?」
「いやぁ、このはぬーんとしたトウガンは、お好きじゃないねぇ」
ビンゴ!
朝7時、私は仲間を手に入れた。
15時間目の奇跡である。
トラップは世の中に溢れている。
この、江口さんの顎には絆創膏が毎日付け替えられている。
初めてお会いした時、
私は怪我をしたのではないかと、
確認のため見せて欲しいと懇願した。
江口さんは「乙女の秘密だ」と言った。
どうやら、怪我ではないらしい。
医療スタッフは皆心配していた。
数週間後、
風の噂で聞いた。
あの絆創膏の下には、”幸せの白いひげ”なるものが存在していることを。
白ひげトラップだ。
しかも、めちゃくちゃ長いらしい。
もう何年も前の話だ。
母が、「トラップやわ…」
と、実家で泣いている姿を発見する。
「トイレのトラブル10万円…」
実家のトイレが詰まったのである。
暮らし安心クラシ○ン♩のCMでお馴染みの業者からのトラップに、母は陥っていた。
が、おもむろに母は話し出す。
木造の古い民家は静かに声が響く。
「詰まらせたままで結構です。」
「元のうんこ詰まりに戻してください」
作業員のおっさんは、キョトンとしている。
もはや、相互トラップだ。
トウガンの話に戻そう。
「eriちゃん、
そういえば、朝食食べられた?
トウガンおいしいよね?」
と、三谷先輩は、無邪気に私を覗き込む。
私はキリリと答える。
「食べましたとも、私は大人ですからね」と。
M.eriは時々見栄を張る。
三谷先輩の顔もまた、
意味がわからないと言った様子で
はぬーんとしている。
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