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ルポルタージュとノンフィクション

 ノンフィクション作家、沢木耕太郎の短編集『人の砂漠』の「ロシアを望む岬」を読んだ。戦後からソ連崩壊の1991年にかけてレポ船や特攻船が北方領土周辺海域で暗躍する様子、領土問題やソ連国境警備隊に翻弄される根室の漁師の生活がまじまじと描かれている。


 同じく道東・道北の人々とソ連・ロシアの関係を綴った作品として、北海道新聞社の本田良一記者の『日ロ現場史』がある。本田記者は北海道新聞の特派員として、ハバロフスク・モスクワ駐在の経験があるロシアの専門家だ。現在も、同紙の夕刊で北海道とロシアの海をはじめとする、「国境の海」に焦点をあてたシリーズ「海と国境」を連載している。


 両者ともに同じ題材で文章を書いているが、私はそれぞれから異なる印象を受けた。端的に言えば、本田記者の文章に比べ、沢木の文章の方はより自然で、実態を如実に表現していると感じた。なぜか。

 本田記者は(wikipediaにもあるように、)「バランス感覚に優れた緻密な取材」を強みにしている。伝えたいメッセージが明確であり、対応するエビデンスが確実に記述されている。本田記者の文章は限りなく実態に近いはずだ。

 ではどうして沢木の文章の方が自然だと感じたのか。理由の1つは沢木の文体だろう。登場人物の発言はそのままである上、沢木自身の心情も砕いた表現を用いて描かれる。もう一つのわけは、沢木のストーリー構成に恣意性が感じられなかったことだ。当然、作家であるから、推敲に推敲を重ねた上で書いているはずだが、私には沢木が見聞きしたものを感覚でつづっているように感じられた。

 一方、本田記者の文章は、主張に導かれるよう、エビデンスが綺麗に並んでいる。その帰納的な文章に不自然さは全くない。しかし、エビデンスから主張までの一本道は整いすぎており、徒然さのある沢木の文章と比べると主張とエビデンスの選択に恣意性が感じられてしまう。

 二人の文章のスタイルは、写真に喩えられるだろう。本田記者の写真は、何が映っているのか、なぜこれを撮ったのか、すべて撮影者が説明してくれる。一方、沢木の写真には説明がない。おおよそ何が映っているのかはわかるが、その受け取り方は各人異なる。

 私は、これを、ルポルタージュとノンフィクションの違いだと感じた。つまり、著者が伝えたいメッセージと、それに向かうエビデンスの有無が、前者と後者の試金石となる。

 私はここでルポとノンフィクションの良し悪し、好き嫌いを語るつもりはないし、それを判断する能力もない。ただ、自分の読書経験として、その違いを一つ感じとることができたことを嬉しく思った。


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