働かないと不安「社会人病」
一、二年前、よく熱を出すことがあった。その頃の話。
ある日、軽い熱が出て、仕事を休んだ。
その少し前からずっと咳が出ていて、前の日は朝からだるく、午後になると声が枯れた。
この日も、「仕事に行かなくては」と思っていたが、体温が高めに出る体温計で熱が七度四分あることを確認して、出勤するのをやめた。その後、割とすぐに熱は七度ちょうどまで下がり、病院では六度七分になっていた。
行きたくない、が体と無意識の心に現れているのだと思った。
以前なら、少し体調がおかしいかも、と感じても、熱は計らずに仕事に行っていただろう。検温するとしても、もっと信頼しているマイオフィシャルな体温計を使っただろう。そして、そもそも熱は七度を越えることはなかっただろう。やる気と気合いで。
仕事には行きたくないが、「仕事をしないことへの不安」は大きい。
心に潜む魔物だと思う。休む、という答えは簡単に出せるのに、中々そうできない。だから朝、休みたくて仕方がないのにぐずぐずしていたし、正当な休む理由を作ろうとして何回も体温を計った。遂にはその思いに体が応えてくれた。「これで心置きなく休む決断ができるだろ」と、体温計と体が言ってくれた。
それでも、「でもやっぱりこれでいいのか」と心では思っている。
抗原検査で陰性だと分かった後でも、「今流行りの風邪ですね。検査はしなくて大丈夫でしょう。熱が下がれば明日は仕事に行っていいですよ」と言ってくれる医者に行けばよかったのではないか、などとまだうだうだ考えている自分がいた。しばらくは、この思考に憑りつかれた。社会で働くことに慣れ過ぎた、深刻な病気だと思った。
常に、「周りの人や場所のことを考える」ことを自分に強いている。自分は二の次。チームに迷惑をかけてはいけない。辛いのは自分だけではない。みんな事情があっても働いているんだから、僕もこの程度で休むわけにはいかない・・そういう類の観念だ。
思えば、これは、学校で教わった価値観だった。
なぜ学校で教わるか。それは、社会に出た時に必要だからだ。
僕も、似たようなことを子どもたちに言うことがある。
僕も、「社会人病」を植え付けている。
これは、正しいのだろうか。
「社会人病」を身に付けることは、本当に、生きていくために必要なのだろうか。幸せな人生を歩むために、なくてはならないものなのだろうか。
しかし、社会に属さず、役割を得られず、コミュニティの中に居られなくても幸せかと言われると、それも違う。
学校で教えるべきことは何なのだろう。
きっと今、「社会」というものの形が変わっている。
一つの大きな大きなドームの中に、みんながいる、という感じではなくなっているのだろう。
社会が変わっているのなら、学校もその在り方自体が変わらなくてはならない。しかし、叫ばれているのは、子どもたちに身に付けさせる新しい力やそのための学習の内容や方法ばかり・・
そんなことを、布団の中でうとうとしながら考え、やがて意識を失った。
夕方になり、職場へ連絡し、明日も休むために必要なことを済ませると、ようやく肩の荷が降りた。「社会人病」に苛まれるのは、勤務終了時刻まで、放課のチャイムまでだ。きっと、学校へ行くのが嫌な子も、こういう感じなのだと思った。
体は十分休まり、回復したが、心の休息はまだ始まったばかりであった。
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