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『人生100年時代を軽やかに生きるために~いくつからでも輝き出せる~』前半

☆interview☆
年配の方でも、若い方であっても、自分の言いたいこと、やりたいこと、分かり合うことを諦めている方は多いのではないでしょうか。今回の人生のガイドブックでは、これまでの辛かった人生を解放して軽やかに生きる80代の女性を取り上げます。

結婚すれば相手の両親と同居して専業主婦が当たり前の時代の約60年前に嫁いだ彼女。
もちろん舅・姑さんには自分の言いたいことは言えません。
しかも頼れるはずの夫は両親の言いなりで味方になってもくれませんし、コミュニケーションが全く取れない状態でした。今ならとても考えられないとは思いますが、昭和の時代にはよくある話かもしれません。

「この歳になったら今更人生はやり直せない!」「今更何をやっても無駄!」
普通ならそう思ってしまう所ですが、窮屈な人生から解放されて、日々の暮らしの豊かさを実感し幸せ感を醸し出しています。
今、80歳を超えた彼女は、いきいきと人生を楽しんでいます。

現在、毎日が楽しいと話す彼女にインタビューしてみました。


◆プロフィール◆
加藤 良子さん 京都府在住 80代 【女性】
大阪で生まれて、両親と弟、妹の5人家族の長女として育つ。小学校3年生の時に、母方の祖母と叔母(母の異父妹)とその子ども(従弟)との同居生活が9年間も続いた。大家族になったことで言いたいことも言えず、両親に迷惑かけないような幼少期を過ごす。23歳のときに父の知り合いの紹介により結婚と同時に夫の両親と同居。長女・長男・次女と3人の子どもを授かる。その後、姑を介護した後に舅の介護も経験し、現在は、夫と長女との3人暮らし。

◆目次◆
~前半~
■幼少期の家庭環境 
■両親について 
■お見合い結婚しました
■まさか自分の名前を変えられるなんて! 
■新たな人生のスタートを切る
◆前半の締めくくり◆


~後半~
■頑張らないと、認めて貰えないと思っていた
■舅と実父は同じだった!?
■夫とコミュニケーションができた!
■家族再生
■言いたい事を言えなくて悩んでいる方へ
 

◆編集後記◆

《インタビュアー:宇崎和雄 研究員 ライティング:宇崎明子 研究員》


~前半~

私は、子どもの時から、ずっと苦労ばかりの人生を送っていたことを当たり前に思って生きてきました。
しかしミロスシステムに出合い、80歳近くで夫と共にミロスアカデミーに通ったことで苦労ばかりの人生が紐解けて、結婚60年を迎えた今、私が夫と結婚したこと、この家族とともに生き、この人生で本当に良かったと思えていることが最大の奇跡です。私の人生の解体ストーリーをご覧ください。

【良子さん家系図】

■幼少期の家庭環境幼少期に過ごした環境、生い立ちについてお話します。私は両親と弟、妹の5人家族の長女として生まれました。5人で暮らしていたところに、突然3人の同居人が我が家にやって来たのです。小学3年生の私にとっては、大きすぎるほどの変化でした。

しかもその3人というのは、私が生まれる前に離婚して縁がなかった祖母と、祖母の再婚後に生まれていた娘(叔母)とまたその子ども(従弟)達との同居です。
親戚ではありますが、あまりにも複雑な家庭環境になりました。とても常識では考えられないような状況になったのです。

叔母は同居後、税務署員となり一生懸命働く人。従弟は私達を慕ってくれて面白くて良い子でした。
ですが、祖母は従弟には手作りでセーターを編んだり、可愛い服を着せてあげたり、食事も叔母家族の料理は祖母が作りますが、私達家族には料理も作ってくれないし、何もしてくれない人でした。

今思えば、実のおばあちゃんなのに、親戚のおばあさんという感じでいつも寂しい気持ちがありました。

終戦から間もない頃だったとはいえ、少しの間と言われていたので、しょうがないことだと思いましたが、窮屈な生活は叔母が再婚するまでのなんと9年間にも及びました。

その9年間の幼い頃の自分の気持ちを思い返してみると、私は家族だけで楽しく過ごしたかったと思います。

家族団欒を夢見ていたなあとつくづく思います。
もっともっと両親に話を聞いて欲しかった…。
本当は言いたいことは山ほどありましたが、当時は何も言えませんでした。

■両親について 
私の父は長崎県の佐世保で生まれ、9人きょうだいの下から2番目。しかもたった一人の男の子でした。

父の両親は農業を営んでいました。
ですが父がまだ幼い頃に両親を失い、姉や義理のお兄さんたちに面倒を見てもらい、育ててもらいましたが、窮屈に思い、18歳(大正10年)になった時に、誰一人として知り合いがいない大阪へ単身で出てきました。

働くところも寝るところもなくて、保証人のいない田舎の男性を雇ってくれる筈もなく、おそらく野宿をしたり食べられない時もあったのだと思います。

そんな話を子どもの私に母が一度話してくれたことがあったのですが、
父は「子どもには親の苦労の話をしなくていい」と母に言ったことで、その後は昔の父の話を聞く事はありませんでした。

当時、父の会社は私たちが住んでいた借家の目の前を走る国道を渡ると直ぐそばにあり、仕事は朝早くから夜遅くまで、日曜日もお正月もなく働いていました。

学歴がなかった分、後から入社した仕事は出来ないけれども学歴のある人にすんなり専務や社長の座に着かれる悔しさも経験しました。
父はたくさんの苦労と努力を重ねたのだと思います。仲間たちと数人で会社を興して勤めていたというよりも、最初から創業の一員だったので工場長という肩書で、良い待遇を受けるまでになっていきました。 

父は仕事で忙しかったのですが、夏になると、父と子ども達だけで母が作ってくれたお弁当を持って海に連れて行ってくれたのが唯一の思い出です。

思い出とは少し違いますが、父は寡黙で、あまり度が過ぎたことを言うと爆弾が落ちたように怒られるので、その時はとても怖かったことも覚えています。

母は生まれてすぐに、両親の離婚によって曾祖母に預けられたと聞いています。
父と同じで、両親から育てられていないのです。
その後も親戚中をたらい回しにされたり、いじめにあったりしたと聞いたことがあります。

■お見合い結婚しました

昭和37年、父の仕事関係の紹介で、夫とお見合い結婚しました。 23歳の時でした。

夫は京都生まれの京都育ちでした。
私は生まれ育った大阪から誰一人として知り合いのいない京都に嫁ぐことになりました。
夫の両親(舅・姑)との同居のスタートです。
風習の違いや環境に戸惑いながらも少しずつ合わせていきました。

お陰様で、長女・長男・次女と次々と子宝に恵まれ、自分のことなど考える暇もないくらいに忙しい日々を送りました。

明治・大正初期生まれの舅・姑です。まだまだ男尊女卑が色濃く残っている時代。 

嫁ぎ先の加藤家は、舅の一言で全てが決まる家族。そして姑は舅に一切逆らえず、意見を言おうものなら反対されて、それが辛くて諦めて従うしか、仕方なかったのだと思いますが、姑も私もいろんなことを舅に言われていました。

■まさか自分の名前を変えられるなんて! 

私が結婚して直ぐのことです。私の名前は「良子」と書いて「よしこ」と読みますが、舅から『親戚に「よしこ」が何人もいるので、今日から呼び方を「りょうこ」にする』と言われて以来、その日から「りょうこ」と呼ばれることになったのです。

せめて、夫と二人のときだけは「よしこ」と呼んでほしかったのですが、最近まで夫からも「りょうこ」と呼ばれていました。 

舅に対して「なんて酷い人なんだ」と思いましたが、年若い者が噛みつくなんてできません。「もう、どうでもいいわ!」と諦め、やりきれない思いでいっぱいでした。
 
夫は両親の言うことしか聞きませんでした。私の味方にも 一切なってくれませんでした。

あまりに悲しくて腹が立って、夫に「私となんて結婚しなくて良かったのに!」と言ったこともありました。

そしてこんなこともありました。
舅は、料理に慣れていない私の味付けが薄いと感じると、食べ終わるまでずっと「水くさいな!」と言い続けていました。(「水くさい」とは関西弁で「味が薄い」という意味)

またある時、姑とデパートで可愛らしい食器を2人でお金を出し合って買ったことがありました。
舅は何が気に入らなかったのかわかりませんが、翌日に舅自らが理由も何も言わずに勝手にデパートに返しに行ってしまったのです。
食器を一緒に選んで買い物に行き、姑と仲良くなれたと思ったのに、姑は何も言ってくれませんでした。

いろいろと、理不尽なことばかりが起こりましたが、私にはもう帰る場所など何処にもなくて、歯を食いしばって我慢をして生きていくしか仕方なかったのです。

■新たな人生のスタートを切る 

自分の人生を振り返ってみたときに、なぜこれほどまでに自分の人生が、思うようにならないのか? まったく分からなかったです。

結婚してすぐに同居生活が始まり、夫とはほとんど会話もなく、何か相談をしても、いつも夫は舅姑の味方のように思っていました。

夫は、鉄仮面のように無表情で、「面白くない人」と思っていたし、何とかコミュニケーションを取りたかったのですが、全くうまくいきませんでした。
誰もわかってくれなくて腹が立つのと同時にとても悲しかったことを覚えています。

「手に職があったら離婚したい」と思ったことも何度となくありました。
でも子ども達も居るし、苦労しながら結婚式もあげてくれた親のことを思うと口がさけても「離婚して実家に帰りたい!」とは言えなかったのです。 

誰にも相談出来なくて、宗教に救いを求めたこともありましたが、
「なぜそれほどまでに理不尽なことばかりが起こるのか?」なにも答えは分かりませんでした。

自分の趣味や楽しみを見つけてみたり、友人と旅行に行ってみたりもしましたが、一時の寂しさが埋まるだけでした。
結局ほんとうのところは何も分からず、誰も教えてくれませんでした。

ですが、どうしても諦められなくて、知りたくて私達夫婦は、長男の薦めでミロスアカデミーでカリキュラムを学ぶ為に、私は77歳、主人は80歳でスクールに入学しました。

夫はスクールに行くことを少しためらっていましたが、私の思いを汲み取ってくれて、一緒に行くことを決めてくれました。
夫婦で受講できることがとっても嬉しかったです。

後になって、ミロスアカデミーの受講者の中で、私達夫婦が最高齢での受講だったと、スクールの担当の方からお聞きしました。

すでに、結婚から50年以上の月日が流れていました。 

こうして私たち夫婦は、「人生の謎」を解き明かすために新たなスタートを切ったのです。

◆前半の締めくくり◆

突然、祖母と叔母家族が同居したことで窮屈な生活を送った幼少期。結婚しても舅・姑との同居生活。呼び名が変えられたり分かり合えない家族や夫婦関係の中で、またしても窮屈な生活を送った良子さん。後半では新たなスタートを切った良子さんが、夫婦・家族のコミュニケーションがどのように再生していったのか軽やかに現在を楽しむ姿をお伝えします。
後半へ続く

後半へ続く

https://note.com/vast_eagle460/n/n4a493a83d9b6


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