粒≪りゅう≫ 第十四話[全二十話]
第十四話
“星加さんは、元気にされているのかな・・・”
慌ただしい日々だけれど、心は穏やかで、いつからか粒は、自身の内部に蓄積されていた、大量に積もっていたはずの汚泥の音を、聞かなくなっていた。
ふと、自分が初めて手掛けた絵本を、どのような書店で、どの様な人がどのような状況のもとで、手に取ったり、購入したりしてくれたのだろうか・・・と時折想像して、さらに、読んでくれた人は、何か思うところがあったのだろうか・・・と思ったりした。
出版されて一年になる頃、出版社から、契約の延長をしないかとの、電話がきた。契約の延長をするには、ある程度のお金が必要になる。
粒の絵本の在庫がまだあって、是非とも延長を、と勧められたが、粒には、そのために費やすお金はない。確かに延長すれば、より多くの人に、絵本を手にしてもらえる機会は増えるのだろうけれど・・・。
ああ、書店で山積みにされている本の著者のように、沢山の人に読んでもらえるような人は、逆に出版社からの入金があるのだなぁ~。すごいなぁ~・・・。とても尊いことだ。そんな人は、どうしてそんな人になれたのか知らないけれど、凄いことだと、すこうし、その過程に触れた今なら、粒にもわかる。
粒は、電話の相手の申し出を丁重に断り、これまで世話になった事の礼を述べて、契約期間を終えた。話をした相手は、その部門専門の職員のようで、星加ではなかった。
不思議なことに、寒い季節が到来しても、粒の指が蒼白になることはなくなった。
きっと過度なストレスのせいだったのではないか、と、あんが言う。なんでもかんでも、ストレスのせいにするのはどうかとは思うが、粒自身も、そうだと思った。
身体は正直だ。身体と心はそもそも別ではなく、常に連動していると粒は実感する。
行く先々で、粒は、無意識にあの匂いを探し、星加の存在を探していた。
パート勤務の道中、買い物の道中、電車の中で・・・行く先々に、その存在はなく、その匂いにも逢えなかった。
“契約のきれた人物が、用もないのに、ひょこひょこと出版社に行くことなんて出来ないし。
ああ、売れっ子の作家だったら、こっちから行かなくても、向こうから喜んで来るのになぁ~。ああーいいな~売れっ子だったらなぁ~印税生活出来るのになぁ・・・“
粒のこの思いは、星加に会いたいためのものなのか、自分の今後の生活の安泰のためのものなのか・・・きっとどちらもなのだった。
でも待て待て、と。一冊の絵本を世に出すので精一杯の自分が、そういう仕事で生きていこうなどと思うことは、物凄く甘いのだ、という事を、粒は自分に言い聞かせる。
妄想でしかない。それに、逆にいうと、書き続けていかなければならなくなるのだ。書くことが無くても、書きたくない事でも、書けなくても、兎に角書き続けなければならないのだ。
無理だ。やはり、気が向いた時に、書きたいことを綴る喜びを感じていられる今の状態が、幸せなのだと思いなおした。
***
「お母さん!!!もう、びっくりしたじゃないの!!!」
あんの、息せききった様子と緊迫した表情に、心拍数をあげて、無我夢中でここまで来てくれたのだということが、粒にはすごくわかった。
「ごめんごめん。ほんと、ごめん。」
「心配かけて、本当にごめん。」
粒は、あんに、心から謝った。
「心配かけてごめんだけど、もう大丈夫だよ。ね、元気そうでしょう?」
「もう、ほんと、心配したわ。ああ、心臓に悪い。」
「心臓のドキドキが止まらないよ。本当に大丈夫なの?」
あんが、粒の顔を覗き込む。そして、別段いつもと変わりないように思える粒の顔を見て、ちょっと安心したようで、少し、あんの表情が緩んだ。
粒は、そもそもあわてんぼうだ、というか、せっかちだ。
やらなくてはいけない事があると、気が急って身体中が、まるで全細胞がワイワイ湧く、とでもいうか、前のめりになるとでもいうか、やたらと走り回るのだ。走れる範囲で、だが。
それで、職場でも本来の習性丸出しで、パタパタと走りまわる日々を送っていた。
粒は、とある施設の清掃業務をこなしているのだが、先輩のパート職員に、自身の小走りを目撃される度、『走るでない』と、注意を受けていた。にもかかわらず、走り続けた結果、今に至ったのだ。
滑って転んだのだ。転んだ際に、床に凄い勢いで側頭部を打ち付けて、一瞬
“あ、救急車に乗るかも・・・”
と粒は思った。
周りにいた職員も、血相変えて飛んできた。
転ぶ際に、抱えていた施設の物品を床にまき散らし、ゴガン!という派手な音をたてたものだから、周囲にいた職員は、ずいぶんと驚いた。
ざわめきの中、粒は、むくうっと起き上がると、恐る恐る、床に打ち付けた患部を触ってみた。出血はしていないようだった。ちょっと安心した。
「大丈夫?ね、大丈夫?」
「すごい転び方したけど、頭打ったよね?どこか痛い?」
「あ、無理に動かないでいいから!」
心配そうに、顔を覗き込んで、粒の様子をうかがう職員に声をかけられる中で、
粒は、あれだけ注意されていたのに・・・やってしまった。と思うと同時に
“私が死んだら、あんはどうする?ああ、心配いらないか、もう、あんは、ひとりでもやっていけるか・・・しっかりしているもの・・・”
と、知らず知らずのうちに、心の準備をしていた。違う世界へ行く事になるかもしれないと思って。
「ね、救急車呼ぶ?」
駆けつけてくれた職員同士の会話が、粒の耳に入った。ハッとした。
「いえいえ、大丈夫ですから。救急車は、呼ばないでください。ほら、大丈夫。」
と、粒は無事を証明しようと、ニコニコしながらゆっくりと立ち上がった。 取り敢えず、緊迫したその場の空気は和らいだが、やはり何かあるといけないからと、職員のひとりが、粒を、総合病院に運んでくれた。
頭部の無事の確認と、身体に異常がないかの検査を受けるように、という訳だ。
「ねえ。お母さんてさあ。今、こんな状況でいうのも何だけど。もう大丈夫そうだし、言いたくてたまんないから言うけど。」
あんが、クックックックックッと肩を震わせて、顔を赤らめて言った。
「ほおんと、やっぱり!お母さんが仕事に出ると、何か起こるよね!今回は、お母さん自身に起きたじゃん。」
「今、そうして元気そうだから笑っていられるけど。ほんとにもぉ~・・・。少しでもおかしいな、と思ったら、すぐに看護師さんに言ってよ!我慢とかしちゃだめだよ。」
うんうんと、うなずきながら、粒は苦笑いをして、
「ほんとだね。なんでなんだろうね~。でも私だけじゃなくて、皆、日々、何かしらあると思うけどね。他の人の事は、なかなか表立って見えてこないだけでさ。生きていると、日々、なんやかんやあるのは、仕方ないよ。」
「生きているんだから。」
“逆に、死んでしまったら、何も起こらないものね・・・”
念のために、一晩病院で過ごすことになっていたので、粒は、あんに頼むべき事を伝え、気を付けて帰るようにと促した。
第十五話につづく
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