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【感想文】ハチャトゥリアンとショスタコーヴィチ@上野東京文化会館5.3(後半)

休憩を挟んで、2曲目は、ショスタコーヴィチの交響曲第5番ニ短調。芸術劇場の時はラヴェル「ラ・ヴァルス」が主目的だったが、この日はこの曲が目的だったと言ってもいい。特に、有名な第四楽章。しかし、有名だからというよりは、小さい頃から数えきれないほど聞かされてきたから、というのが本当のところだ。私が小学生当時、父はまだオケに入っておらず(もちろん趣味で、だが)、吹奏楽団に所属していたが、胎教からしてクラシックのみだったらしい私はずいぶん聞かされて育った(ちなみに母はロック、妹もクラシックは聴かない)。塾の帰りの車ではドヴォルザーク「新世界より」と、裏面がスメタナ「モルダウ」のカセットが擦り切れるまで聞いた。ショスタコは、吹奏楽団の定演でやるということで、ずいぶん前から予習を兼ねて聞かされた。思い入れがあるとか好き嫌いとかいうより、単に聴きこんだ思い出のある曲、という方がふさわしいか。

ショスタコーヴィチ(1906~75)は、名前からも分かるように、旧ソ連の作曲家。交響曲第5番ニ短調は「革命」と俗に呼ばれるが、これは標題音楽でもなく、ショスタコーヴィチ自身とも、別に何の関連もない

第1楽章。この曲は、本当に何十年にもわたって、何パターンもの演奏を、CDやら生演奏やらで聴いてきたのだが、だいたい、スピーディーに進む箇所と、スローな箇所のメリハリが演奏ごとにはっきりしていて、さらには、指揮者によって、全体的な演奏も、スピード感あふれる演奏か、すごいスローで統一か、に分かれる。
この日の演奏は、割とスローだな、という感じをまず受けた。
ヴァイオリンの高音、しかも不安定な箇所にある高音が、ビブラート(というのか)を保ち、常にバックに流れ続ける。前面に出ているオーケストラがどんな旋律に移行しようがお構いなしに続き、この曲に常に一定の緊張感を持たせ続けている。途中、いきなり行進曲風になったり、主題が繰り返し現れたり、消えたりと忙しい。
低音ピアノの進行も不吉である。そう、ショスタコーヴィチのこの曲は、あるいは前回、当時のフランス風に、と表現したのを受けて、今回あえて、この時代の旧ソ連音楽に共通する特徴の一つとして(ラヴェル・ドヴォルザークの時は「危うさ」と表現したが)、「不吉さ」とでもいえるものがあると思う。あくまで表現であって、本当に不吉なもの(歴史や事件など)が背後にあるとか、そういうことでもないし、悪いイメージでもないのであるが。

第2楽章。テンポはやはり遅い。そのため、楽器一つ一つの音が、強調されやすい。さらには、指揮者が、一つ一つの楽器(の音)を、丁寧に拾いすぎる。良く言えば、ゆっくり、丁寧な演奏だ。あまり良くない表現をすれば、丁寧すぎるゆえに、全ての音が「過度に」前面に押し出されている。これはこの指揮者の特徴のようだ。ちなみに指揮者の坂入氏は、音大を出ているのではなく、慶応大学出身らしく、まだ三十代半ばと、若い。その経歴や若さがどのように指揮に影響しているかは不明だが、音を丁寧に拾っていくところ(これは賛否あるだろう)、全体的に滑らかだが割とメリハリのある演奏であること、特に静かな場面の美しさを表現すること(抑えた音での表現)が上手であること、これらが彼の今の時点での指揮の特徴かなと思った(今の時点で、というのは、今後もっといくらでも成長・変化していくだろうから)。
この第2楽章の方が有名か。コマーシャルだか何かに使われていた気がする。軽やかな旋律は踊ったり跳ねたりしているようで、それもまた繰り返し出現する。

第3楽章。ラルゴなので、さらにゆっくりだ。ふと、遅い音を、自分の意識が追い越してしまう、という場面があった。この音の流れが、川の流れだとすると、自分は足を踏み入れられるのか、どこに自分の足が着地するのだろう、と思った。まるでヘラクレイトスのようだが「同じ川に二度足を踏み入れることはできない」。ここでもまた、音楽が時間芸術ということを、今回は頭でなく、ただ感覚的に、捉えた。
再びヴァイオリンの高音のビブラートが背後に流れ、緊張状態が保たれる場面が続く。第4楽章で出現するテーマもちらほらと出てくる。このヴァイオリンの不吉な高音ビブラートの存在は、あたかも、オーケストラの中に「緊張した人」「間違っている人」が一人だけいる、といった感じを受ける。私にはそれ程、不気味な音に聞こえるのだ。

第4楽章。これまでの流れからすると、出だしからいきなりスピードアップしている。これまで私が聴いた演奏の中でも、速い部類に入る。疾走、そんな言葉も浮かぶ。トロンボーン(父はトロンボーンなので特にいつも注目)、ようやく大活躍。だが、弦楽器の小刻みな演奏、結構長く続くが、これは吹奏楽では真似できないな、と思った。(帰宅後父に聞いたら、木管(?)がトリルで吹くのが代替方法らしい。)
中間、再びテンポがゆっくりになり、しかしこの部分を割と早く演奏して駆け抜けてしまう演奏もあるが、徹底してスローになることが多い。ここでは予想されたくらいのスピードダウンで、さほど遅すぎない
ラストは気持ちのよい「ジャジャーン!」なのだが、この曲のラストは、特に長引かせてもったいぶらせて、持ち上げて持ち上げてから「ダン、ダン、ダン、ダン、ダーーーーーン」とする指揮(演奏)がよくみられるので、このテンポのままいったら、そうなるかな、と思っていたら、大音量と大迫力はそのままに、そして流れも指揮者の腕の流れもそのままに、流れるように、割とすんなりと終わってしまったので、この終わり方にも少し驚いた。
だが、この第4楽章自体、テンポに関しては、版により指示が異なっており、色々な解釈がなされてきたらしい。
そもそもショスタコーヴィチがこの曲において何を表現しようとしたのか(それがあるならば、の話だ)、それも分からない。やはり、時代的な背景を鑑みる必要があるのかは分からないが、この曲の中に、喜劇的な要素か、悲劇的な要素か、どちらを見るかと問われれば、全体的に見て、私は悲劇的だと捉える。逆説的に喜劇的だというのでもなく、全くの悲劇である。その理由はやはり、あの不吉なヴァイオリンのビブラートだ。ともすれば、軽妙な旋律で有名な第2楽章の明るさや、第4楽章の劇的さと迫力に、その魅力を持って行かれそうな曲だが、私は個人的には、全体を通して流れる「不吉さ」に惹きつけられる。曲にはそれぞれ、この楽章が、この主題があるからこそ、最後の楽章が、あるいはこの主題の転調の繰り返しが、より生きてくるのだ、といった「縁の下の何か」があるように思う。最も光らせたいものを光らせるための、何か。私はこの曲で「縁の下の何か」に該当するものがあるとすれば、それこそがあのヴァイオリンの不吉さであり、それがこの曲の主題を光らせ、激性を予感させ、大団円へと導くよすがとなっているのではないか、と思うのである。

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