【感想文】ハチャトゥリアンとショスタコーヴィチ@上野東京文化会館5.3(前半)
今回は上野の東京文化会館、大ホール。N響、指揮は坂入健司郎氏。
芸術劇場とはまた全く違う座席構成・座席数。私は一階席の中央から少し後ろあたりに落ち着いた。
芸術劇場の時はだいぶ空席も見えたが、この日は満員御礼だったのではないか。しかも5階席まであり、隣のご婦人方も話していたが、席と席の、前後左右の間隔が狭い。こんな状態も手伝ってか、音響は良いと聞いていたこのホールだが、私にはあまり良好とは感じられなかった。これだけ密で超満員だと、響きが良くない。私の座席の位置にも関係しているだろうが、まず「サラウンド」を感じた前回とは異なり、音がダイレクトに真っすぐ突き刺さってくる感じだ。
1曲目はハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲ニ短調。
この曲は聴きこんだ曲ではなかったのだが、事前に少し聴いてきた感じから、何となく、東洋的な香りがするとは思っていた。だがそれも遠からずで、この曲は実際、民族的あるいは東洋的な要素がかなり取り入れられている。
第1楽章。独奏ヴァイオリンがテーマ(主題)を演奏。何度も出現する主題の一つ(一定のメロディライン)が、東洋的である。どこかの音が抜けている音階(例えば沖縄特有の「ドミファソシド」のような)だからなのかと思うが、よく分からない。
後半、前半のオーケストラの奏でていた旋律を独奏ヴァイオリンが奏でる。狂気的なほど野生を感じさせる、かなり熱量の高い演奏だ。独奏者は足を踏み鳴らして音にのっていた。おそらくリズムをとっていたのであろうと思うが、そんな姿も、独奏者がこの曲とオーケストラと、自らの演奏、全てと一体化しているように見えて、私には良く映った。ああ、これでいいのだ、クラシック音楽の演奏(者)は。だからきっと、聴き手も、こういう場でなければ、自由な聴き方をしていいのだ。目をつぶってじっとしているのが最良の姿勢とは限らない。音を全て拾わないといけないなんてルールもないのだ。そんなことを思った。
第2楽章。滑らかな演奏が続く。事前に聴いた演奏は、だいぶ音を区切った演奏だったが、特に独奏ヴァイオリンはガチガチと区切らない演奏だ。寂然として、郷愁あふれる主題が演奏される。この楽章が最も東洋的な要素を感じさせた。
ちなみにこの演奏では独奏ヴァイオリンはストラディバリウスが使用されていたようだが、私はストラディバリウスの音色を聴くのは初めて。特にどのあたりの音が(高音、低音など)素晴らしいというのではなく、奏者によって美しく奏でられるのを待っている、可能性を秘めているというか、ポテンシャルの高い楽器だなと感じた。(低音という意味ではなく)奥深い、という表現が合う気がした。まろやかで、あまり鋭すぎない、とがっていないという印象を受けた。
第3楽章。無難な指揮、という感じだ。だがここではいい意味で。オーケストラは独奏ヴァイオリンを意識して(尊重して)、主張しすぎない。再び、第一楽章の主題が出現するが、この楽章ではさらに民族的な要素を持った主題も現れ、独奏ヴァイオリンは跳ねるように演奏され、原始的な民族舞踊のイメージから、人間の持つ根源的なパワーがあふれ出る。最終章にふさわしいダイナミックな構成と演奏。
終わり方が、クラシックによくある「ジャジャン!」の、長いバージョン。この、もったいぶった「ジャジャン!」は他にもたくさんあるが、この曲の終わり方はいささか奇異な感じだ。隣の二人の老婦人たちは「この曲ここで初めて聴いたわ」と終わってから語っていたが、この曲は確かに、ものすごい有名かと言われれば、そうではない部類だろう。だが、あまり有名でなくとも、その曲を、作曲家がのこしたスコア通りに、各パートが忠実に再現し、皆で一つの曲を演奏する(作り上げる)というのは、なんと素晴らしいことだろう、と思った。だからこの最後の「ジャジャン!」にも意味がある、生きてくるのだ。プラトンの書いたものだって、そんな昔に古典ギリシア語で書かれたからといって、現代のわれわれに都合の良いように勝手な読み方は決してしないのと同じだ。「皆でスコア通りに演奏して皆で作り上げる」という意味での、オーケストラの意義というものについて、今回はこんな風に感じた。
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