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倫理。あるいは自由の話。

 ここ最近、もやもやするニュースばかり目にする。

 この一文を読んで何を想像したかは人それぞれだろうが、おそらく私のこの感情の原因は多くの人と異なっているのだろう。


りん‐り【倫理】
人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。「倫理にもとる行為」「倫理観」「政治倫理」

出典:『デジタル大辞泉』小学館

 「倫理」という言葉を辞書から引用した。ちょっと分かりにくいな。

 倫理というのは「自分がしてほしくないこと」をしないという性質だと思う。自分がしないことで、相手にもそれをしないでいてもらうということだ。
 こうであるから、して欲しくないことをした人に反感や嫌悪を抱き、時に攻撃をしたり排除したりしようとする。自分や社会の倫理を、これを脅かすもの達から守ろうとする。
 この行為自体は何もおかしいことではない。だが、その根拠はどうも頼りなく感じる。


 昔から、人の嫌がることはしてはいけないと教わってきた。

 でも、自分のしたいことが人の嫌がることになってしまうこともあり、その場合に自分が我慢しなくてはいけないという場面はある。我慢が自分の嫌なことになっているのに。
 それでいいの?

 人の嫌がることをしないようにしていたら、別の人の嫌がることになっていて、双方の嫌がることをしないことが不可能な場合もある。
 どうしたらいいの?

 人の嫌がることをしないようにしていても、結果的に人の嫌がることをしてしまう場合もある。
 どうにもならなくない?

 このように考えた時に、人の嫌がることをしてはいけないという教えには限界があって、それを絶対視することは良くないと判断した。

 だから私は、「私にとってこの選択が必要だった」と思うことを重視する。自分にとって正しい選択だと決められることが大事だと考える。そうするとその根拠は、必ず自分の中にあることになる。



 2者間において「してほしくない」ことをすることについての関係を整理すると次のようになる。

①「自分がしてほしくない」ことを相手がしてきたから、自分も「相手がしてほしくない」ことをする。
②「自分がしてほしくない」ことを相手がしてきても、自分は「相手がしてほしくない」ことはしない。
③「自分がしてほしくない」ことを相手がしてこなくても、自分は「相手がしてほしくない」ことをする。
④「自分がしてほしくない」ことを相手がしないから、自分も「相手がしてほしくない」ことはしない。

 私が支持するのは②と③だ。
 ①と④は相手の行動に依存している。それは意志としては弱く、簡単に覆る。
 ①と④は、抑止力と報復の理屈だ。法律と罰則の理屈だ。ひどい目に遭いたくなければヒドイことをするな。ヒドイことをされたならひどい目に遭わせてもいい、と言っている。

 この理屈に抜け落ちているのは、ひどい目に遭うかどうかは関係なく、ヒドイことをしたい/しない という意志の存在だ。この存在を認めると①と④の理屈だけで世の中は成り立たないことがわかる。
 だから、②と③の相手に依存しない理屈を持っておく必要がある。これこそが「自由」だ。
 「自由」とは、自らを由とすること。自分が決めたことに従うことだ。

 自分の自由を大事にするし相手の自由も大事にする。大事にするの部分は認めると言い換えてもいい。これが私の倫理だ。


 少し前に、路上で子供の腕を掴み子供の命と引き換えに金銭を要求したが、抵抗した母親に撃退されたという事件が起きた。防犯カメラの映像がテレビで放映されていた。
 この事件に遭ったのが私だと仮定して、私の考えを述べてみよう。

 まず、犯人の背景はどうでもよい。どうしてもお金が欲しかったのかも知れない。ただむしゃくしゃしていたのかも知れない。動機がどんなことであっても、犯行自体は犯人の自由であるからそれは認める。

 次に、件の母親同様に私も犯人を攻撃する。ここに躊躇いはない。子供を守るという私の自由を行使する。
 ここで勘違いしてほしくないのが、犯人が子供に危害を加えたから攻撃するのではないということ。攻撃する根拠は、子供を守るという私の自由にある。子供を守るために攻撃する私自身を認めたということである。
 分かりやすく極端な事を言うと、相手が子供の腕を掴む前に――ただ横を通り過ぎようとしていただけであったとしても、子供に危険が迫ると私が判断したならば、先制攻撃をするし、してもよいと考えているということだ。

 さて、攻撃を受けた犯人は恐れをなして逃げた。実際の事件はここまでで終わり。(後に逮捕された。)
 母親は犯人が逃げたから、それ以上は深追いすることがないと判断したのかも知れないし、子供の安全を優先したのかも知れない。
 私なら、最低限警察に引き渡すところまではしたい。そのためには、行動不能にするところまではしているかもしれない。極端なことを言えば、殺めてしまう事もあるかもしれない。そしてそれは、私の自由だ。
 母親の攻撃は法律上正当防衛の範囲だろう。だが、私の場合は過剰防衛(または、より罪の重いもの)と判断されることだろう。
 そんなことは分かっているのだ。そして、その罰は当然受け容れる。それらを理解した上で、子供を守るという自由を行使するのだ。

犯人がしたから「する」ではなく、
法律で禁止されているから「しない」でもなく、
私がそう決めたから「する」のだ。


 私の自由が侵害されることがあっても、それが相手の自由なのであれば、その意志は尊重する。その上で、私は自分の自由を優先する。相手に依存しない、自分に従うという理屈を優先する。
 当然、衝突することもあるだろうし最終的に相容れないこともあるだろう。でもそれは仕方がないことだ。
 もし、その衝突理由が私のアイデンティティに関わる問題だとしたら……私は躊躇いなく相手を消してしまうだろう。

 そう、私は自由主義者なのだ。どうしようもなく自己中心的で、どうしようもなく自由を愛する者なのだ。

 私は、優しいとか思いやりがあるなどと評価される事があるが、それは単純に私の自由が大多数の他者の倫理と偶然にも同じ結果をもたらしているに過ぎない。今は同じ方向を向いているだけに過ぎない。
 一年後には、いや明日や一秒後にも、それは違う答えを導き出す可能性を秘めている。そしてそれは起こり得るものとして、起きて良いものとして、誰よりも私自身が一番認めているのだ。

 「自由」には「責任」が伴うという表現は誤解されやすい。
 私に言わせれば、「自由」とは「責任を全て自分が持つ」ことだ。責任を持てないことは自由とは呼べないし、責任を持たないという自由はない。
 責任を持たない自由というのは、責任を持たないという選択をした自分に責任を持つことだ。その選択をしたこと、つまり無責任であろうとしたことで起こり得る、良いことも悪いこともその全ての責任を持つということだ。
 「自由」を掲げた時点で、「責任」から逃れることはできない。影のようにピッタリと張り付いて、逃がしてくれないのが「責任」だ。



 世の中の人の多くは、私の倫理とは違うものを持っているのかもしれない。
 多くの人が怒りを覚えていることに対して私は何とも思わなかったり、逆に多くの人が倫理に反しないと考えている行為(むしろ称賛されるべき行為として認知されている事も含め)に対して、憤りを感じることがある。

 だから私は、黙って成り行きを見守ることにする。これが、私が私の倫理に反しないための唯一の方法だ。

 ここ最近、自由が感じられないニュースばかりだ。

“悲しいニュースがまたひとつふたつ流れてくる
自分のコトだけでしょ 考えてるのは
そしてキミも
それはそうさ
つのる思い胸に抱いて ボクは歩く
マエへ マエへ マエへ”

作詞:BEADS

それでも私はマエへ進むしかない
そしてキミも

マエとはどこかだって?

それはキミの自由だろ?

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