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表現とは世界への介入である

 今回初めて自分の作品でないものを朗読した。それにあたり、まず読書感想文を書いた。朗読には内容をどう解釈するかをまとめておくことは必須の工程であると考えているからだ。でないと朗読することで何を表現したいかが決められないからである。そのため、感想文をしたためたという次第だ。

朗読は音声表現の一形態である

 朗読の他に声劇、聴衆に訴えかけるスピーチやワクワク感を演出するテーマパークのアトラクション案内のアナウンス、視覚的な情報もあるものの漫談や落語なども広義の音声表現といってよいかもしれない。

 いずれも原稿や台本の文章をどのように読むか、より正確には、何を目的として読み、そして誰に聞いてもらうのかという事を考えておく必要がある。というのが持論だ。

朗読とはなんぞや。

 さて、何故私は朗読するのか。この答えは明白だ。自作の作品に関しては、文章だけでは伝えきれないものや伝わりきらない思いを表現したいからだ。つまり、伝えたいことはビジョンとしてあり、それに読者が少しでも近づいてもらえたら嬉しいから読むのだ。ともすれば、それは押し付けと言われるだろう。しかし、それで構わないと私は思っている。
 他者の作品に関してもほぼ同様だ。自分が感じたものを他の人にも伝えたいからだ。私はこう感じたよ、と。

 一方で、過剰な表現や登場人物になりきってセリフを読むことは押し付けに当たるので、朗読ではあまり良くないという記述をよく見かける。その理由が私にはイマイチわからなかったため、考えることにした。

 この2つの考え方の違いが生まれるその原因は、やはり何のために朗読するのかという点をどう考えているかにあると思われる。

 一般的な朗読の考え方について考えると、過剰な表現などで押し付けてはいけないというのは、聞き手の想像力を阻害してはいけないということらしい。ということは、極端に言うと読み手は単純に文章を読めばそれでいいということになる。機械でいいのだ。感情など皆無でよいのだ。
 これはつまり、他者(読み手)の解釈を介在させない「閉じた一人(聞き手)の世界」を提供することに価値をおいているということになる。

閉じた一人の世界

 まず、物語や詩などというのは完全なまでに「閉じた一人の世界」の提供だ。文章を読んで共感したりすることはあるだろうが、文章を書いたものと読んだものの意識や描く像というのは必ず違うものである。読者は、読んだその文章から「自分の世界」を作り出す。著者の世界を完璧に思い描くことは不可能だ。
 重要なのは、文章を紡いだ著者と読者の間に何も挟まないということだ。フィルターを通さないということだ。

 しかし、朗読を聞くというのはその文章から出来上がるはずの「自分の世界」に、著者とは別の他者の音声という情報が”自動的”に付与されてしまう。もはやその時点で想像力は阻害されている。逆に掻き立てることもあると反論があるだろうが、その阻害と掻き立てるの線引きは不可能だ。
 端的にいうとこれは好みの問題になる。好みがあること自体を否定するのではない。好みで左右されるもので優劣を決めたり、朗読ではないと一蹴してしまうのは愚かしいと言いたいのだ。
 いずれにせよ、このタイプの朗読の考え方は、あくまでも「閉じた一人の世界」に彩りを添えるようなものでしかない。

 ここで、テレビドラマでも演劇でもいいのだが、それらを観ていることをイメージしてもらいたい。それらは「閉じた一人の世界」であることを理解してもらえるだろうか。作り手と視聴者の二者間で成立しているからだ。

 映像という視覚情報まであっても、結局それを解釈していくのは自分一人の世界でのことだ。もちろん、情報の密度自体は濃いので、他者とのすり合わせは楽となる。だから、感想を述べ合いたいと思い、それを楽しむ。これは「閉じた一人の世界」に他者を招き入れることだ。あるいは招待されることだ。

 と、このように考えると文章と音声による朗読の「閉じた一人の世界」の提供で何も問題はないともいえる。機械のように文章をなぞるように読み上げることそれ自体は問題ではないように思える。

 だが、話はここからだ。

流れ込む世界

 世の中には二次創作というジャンルがある。この言葉の範囲もかなり広いのだが、ざっくりと言えば、原作からイメージされた別の小話を創作するとでも解釈してもらいたい。二次創作が評価されるというのは、一次創作の延長線(あるいは結末の違う別の可能性)として創作された世界が、他者の世界のそれと触れ合う場合だ。他人のふんどしではあるものの、世界と世界が触れ合ったことに価値を感じるのだ。

 言い換えれば、これらは相手の「閉じた世界」をこじ開けること、侵入することである。表現を変えれば、押し付けである。しかし、押し付けられた側が確かな世界を持ってさえいれば、むしろそれは違いを楽しむための材料となる。

例えば、

”そう言って彼はあの花を手渡した。”

 この文で終わる小説において、どんな花を渡したか皆さんの意見を聞かせてください。という「閉じた世界」の共有を図るとしよう。
 ある者は色を言い、ある者は花の名前を言うだろう、またある者は小説の世界の季節から花をイメージするかもしれないし、登場人物の好みの花を思い出す者もいたり、花というものをタンポポしか知らない者なら、花のイメージは必ずタンポポになる他ない。
 これらの意見交換をすることで刺激される感情というものはあるはずだ。他の者が赤だの黄色だのを言えば、自分の世界の花も一時的にでもその色に染まることだろう。そんな世界もあるのだと気づくだろう。

 そして朗読は「閉じた世界」に介入するための道具なのだ。音声という手段で、相手の「閉じた世界」に自分の世界の断片を流し込むのだ。

 いや、より正確に言おう。朗読する者の意思も聞き手の意思も関係なく、それは流れ込むのだ。

 これはどういうことか。上の文章の参考音源を用意したので、それぞれの読み方でどんな情景をご自身が描くかを考えてもらいたい。が、別に聴かなくても文章で理解できるだろうからお好みで。

 音源冒頭、無感情の「そう言って彼はあの花を手渡した。」から始まり、間を取る場所を変えた①から③と、感情を付け加えた④と⑤のパターンを用意した。

①「そう言って(、)彼はあの花を手渡した。」
→強調されるのは「彼」という主体。

②「そう言って彼は(、)あの花を手渡した。」
→強調されるのは「あの花」という名詞。

③「そう言って彼はあの花を(、)手渡した。」
→強調されるのは「手渡す」という動作。

④「そう言って(、)彼はあの花を手渡した。」
→好意的な感情を持っているように読んだ。そのため、好意の対象となる「彼」を強調する場所に間をとった。また、声の雰囲気も変えている。

⑤「そう言って彼は(、)あの花を手渡した。」
→怖い雰囲気を漂わせるため、低い声でゆっくりと読んだ。強調した「あの花」に何か意味をもたせるようなイメージにしている。

(もちろん、文脈やストーリーから、どのパターンが相応しい、、、、かはある程度判断出来るだろうが、解釈に不正解というものはない。)

 以上のように、音声には間や緩急や抑揚や声色などの文章以外の情報が必ず含まれる。どれだけ押し付けにならないように読んだとしても、この事実からは逃れられない。
 先程、機械にでも読ませておけばいいと述べたが、実は機械であってもこの情報は含まれており、究極的には機械のそれも押し付けと言えるのだ。

それが我々の目的ではないか。

 しかし、ここでよく考えてもらいたい。そもそも私達は、この「閉じた世界」への介入に喜びを感じているのではないか。介入されることに刺激を感じるのではないか。ということを。

・楽器演奏(譜面からの音の出し方)
・歌唱(カバー、アレンジ)
・クラシック(オケ、指揮者の違い)
・絵画(同モチーフの画家違い)
・写真(同モチーフの撮影者違い)
・演劇(同演目の監督、役者違い)
・ドラマ(リメイク)
・レビュー
・読書感想文

 こういったものを愛好する人は多いだろう。それは何故か。

 察しのよい方であればお気づきになったかもしれない。
 押し付けにならないように、という朗読を推奨しているのは、初めてその作品に触れる人を想定していたり、その人の「閉じた世界」を尊重していることになる。
 他方が、既に創られた「閉じた世界」に介入したいという考えにある。あるいは自分の世界を見てもらいたいという思いがある。
 オリジナルを作った者以外が間に入ると、それらは全て二次創作となる。介入することが目的となる。
 つまり、朗読について考え方が違うその理由は目的の違いにあるのだ。本来はどちらが正しいとかはない。単純に私は、自分が感じたものを表現したいだけなのだ。


 この人生というのも全て「閉じた一人の世界」だ。だからこそ、同じ話題について語り合って「他者の世界」とすり合わせ、そこに喜びを感じたいし、特定の誰かと出来るだけ近い世界を眺めたいと思うのだ。
 私達が言葉を持った理由は、「閉じた一人の世界」からの脱却なのだ。だから言葉を使うんだ


”この「言葉こえ」が この「想いこえ」のまま
君の元へ少しでも 届くことを信じて”


 私は「私の世界」を誰かの世界に流し込む。


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