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“別れ耐性”はゼロでいい
3月。別れの時期である。
卒業式など、別れの儀式を済ませた方も多いはずだ。社会人であっても部署異動などがある時期かと思われる。
私事でも、いくつかの別れがあった。別れというのは多くの場合、悲しみや寂しさといったものを伴う。しかし、その濃淡はどういった別れかでも異なる。
持論を述べると、現代において卒業や部署異動などは本当の別れとは呼べない。この理由として、会おうと思ったり連絡を取ろうと思ったりすれば、それは比較的容易に可能だからだ。
これは、言うまでもなく通信技術の発達によるものだ。手紙は電子メールとなって一瞬で届く。声すらも電話で届く。SNSで相手の今現在の情報を得ることができれば、情報交換や意思疎通に時間的な制約も受けない。
直接会うということも、鉄道や飛行機の発達でたやすくなっている。ネックなのは時間だけだ。
もちろん、今まで学校や会社に行けば当たり前のように会えていた人たちに対して、上述の労力をかけねばコミュニケーションが取れないというのは手間だ。しかし、ここで会わないという選択を採るのは、つまるところ、その労力に見合った関係性では無かったということにしかならない。
それは、惜しむ別れとは言えないと私は考えているわけだ。
では、私の考える惜しむ別れとは何を指すか。
ひとつは死別だ。これはいつの世も同じだろう。そしてもうひとつが、現実世界での関係性を持たない人との別れ。簡単に言うとSNSやネット上だけの関係の人との別れだ。
少し時代を遡ろう。通信技術が無い時代へ。
山越えや航海。あるいは都へ行く、なんかでもいい。
目の前から消えて、遠くへいってしまう。そして連絡はつかない。帰ってきて再会するまでは、生きているか死んでいるかもわからない状態になるということで、これは死別と変わらない。そして、こういった時代は医療技術も発展していないために、人は簡単に死んでしまう。
つまり、別れというのは現代に比べて非常にありふれたことだったと推察出来る。ありふれたことだったと言うことは、ある程度の慣れと諦めというものが生じやすい。感傷に浸る余裕がない。
時代が変われば、別れというものの性質も変わってくる。過去は、肉体的に関われるということが必要だった。現代は、肉体的な関わりは必ずしも必要ではないが、別次元の関わりが必要となった。それがSNSやネットでの関わりだ。
したがって、肉体的な関わりの終わりである死別と同様に、ネット上での関係性の終わりは、別れと呼ぶにふさわしい。
肉体的には関わりがあって、ネット上で関わりが終わった場合は、別れとは呼ばないと考えるかも知れないが、SNSのグループに入れないなどのいじめが問題になることを鑑みると、どちらか片方の関わりが残ればいいというものでもない。
ネット上だけの関係性しか持たない仲であれば言わずもがなである。
こういった意味で、現代人は別れというものの認識が歪なものになっていってるように感じる。
私自身は死別という別れの経験が少なく、その少ない経験のうち急死と呼ばれるようなものがなかったため、別れを惜しむ時間があった。耐えることが出来た。そして、ネット上での別れも数える程度だ。だから、別れに対する耐性が出来ていない。
noteでも、他のSNSのアカウントを消したなどの記事を目にする。そのこと自体を非難するつもりは全く無いが、そのアカウントをフォローしていた人からすれば、それは急死による死別と同義な気がしてならない。
そして、そのようなことが当たり前に行われているのであれば、誰かの目の前から消えてしまったり自分の前から消してしまったりが平然と行われる世界になるのならば、ネット上の別れの感傷に浸る事が無くなってしまうのならば――そちらの方が悲しくて寂しくて空虚な世界に感じてしまう。
そうなるくらいなら、私は“別れ耐性”ゼロのままでいい。
あなたがいなくなると、私は寂しい。
寂しいと思いたいから。
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