罪を憎んで人を憎まず

この言葉を座右の銘や信条にしてる奴がいたら、いじめについて語らせたい。まず間違いなく矛盾した話を聞かせてくれるだろう。

いじめについては、非常に多くの人が様々な意見を持っている。だが、私と同じ考え方をした人に私はまだ出会えていない。非常にシンプルな話なのにだ。

だから、ここにそれを綴ることにした。

最初に残酷な現実を述べておこう。いじめられた諸君の救いになるようなことは書かないことを。


いじめの定義

最終的に個人の財産や尊厳に損害を与えることが確定的な、暴行恐喝強要その他諸々の犯罪行為とそれの準備行為のことをいじめとする。ここでは犯罪にあたらないことは面倒なのでいじめの範疇には入れずに考える。

いじめ論争において、ほとんどの場合ぞんざいに扱われるのがこの定義づけである。これをしないが故に、幾千もの噛み合わない議論が今もまた生まれているであろう。何故いじめの定義付けが必要なのかは後の「何故、いじめ論争は加熱するのか」で述べる。


論じる上での主体者

加害者と被害者のみ。いじめを見て見ぬフリをする奴もいじめに加担してるのと同じだ!とかいうクソみたいな主張は無視。噛み合わない議論の要因の一つがこれである。お前一体誰目線で喋ってるんだ?というのをはっきりさせておかないと混乱を招くのだ。文中では社会的視点でも説明する部分があるが、あくまでも重要な視点は被害者と加害者の2つである。

さて、本題


何故いじめが発生するのか

はっきり言うと、これを考えるのはナンセンスだ。

犯罪者一人一人にその行為に到った理由を尋ねるか。という話。例えば殺人犯に何故殺した?

怨恨か?無差別か?金か?怒りか?と聴いてどんな意味があるか。統計としてデータ収集する意義や裁判の情状酌量の判断材料とする意義はあるだろうが、いじめを考える第三者にとってはその情報は必要ない。

大事なのは、ただ犯罪が発生していたという事実のみだ。

いじめを撲滅しようなどという馬鹿らしい考えの者は、まずあらゆる犯罪がなくなるかどうかを考えてみたらよいだろう。

個人の価値観や信念に基づいて行動していたら、他者のそれとそぐわない事も起こり得る。その中で罪に抵触してしまうこともある。いじめが発生するのは詰まるところこのためだ。

そうは言っても分類したほうが理解しやすいので、下記のように区別した。これで大抵のことは説明できる。

1.被害者の行為や存在が何らかの理由で加害者の価値観を脅かすため

(自分より優れている何かを有している者を対象として、加害者の得意分野で勝ることを誇示する行為等。「なんとなくムカつく」などといったものもここに含まれる)

2.客観的に能力の劣るものを蔑むことで加害者が自己の安心を得るため

(知力財力膂力コミュ力や家系出自容姿など、相手を卑下し相対的に自己評価を高めたい行為全般。いじめられないためにいじめるなどは、ここに分類される)

3.加害者が被害者から利益の提供を受けられるため

(金銭的な恐喝、肉体的な強要、社会的価値提供のコネや口利き他、被害者に馬鹿なことをさせて嘲り笑うといった行為もここに含まれる)

以上のことから、被害者と加害者の関連性からいじめは発生すると結論づけられる。

極端な話、被害者と加害者が関わらなければ、この2者間においてはいじめは発生しない。当たり前のことだが、このことについては後の「切り離して考える」で述べる。



「いじめられる側が(にも)○○」 問題

最近も格闘家の発言で少し話題になったこの問題。

「いじめられる奴が悪い」「いじめられる側にも原因がある」などの被害者に責任の一端を押し付ける価値観である。これに対して短絡的に拒絶反応を示す者が多すぎるのだ。そして、この問題で白熱して本質にまで到達しないまま議論が終わることがざらにある。

この問題は、そういう場合もある。というのが正解なのだ。順番に考えてみよう。

「いじめられる奴が悪い」言い換えると「犯罪被害に合う奴が悪い」だ。例えば、リオ五輪の際、腕時計を盗るために腕ごと切られるから貴重品は身に付けるなという話を聞いたことがある。その情報を知っているのに腕時計をつけて犯罪被害にあった人を「悪くない」と言わない人もいるだろう。悪い悪くないの表現自体に抵抗がある人は「バカだなぁ」くらいでも構わない。治安の悪い所で金品を見せびらかして犯罪にあう人をバカだなぁと思う人がいるはずだ。つまり「いじめられる奴はバカだなぁ(回避しようと思えば回避できるのに)」という風な判断ができる場合もあるということだ。もちろん、全てのいじめが回避できると思っているわけではない。そういうケースもあるのだ、ということを認識して頂きたい。リオ五輪の例えで言うなら、ブラジルに行かない選択肢、腕時計をつけない選択肢、ボディーガードを雇う選択肢、自己鍛練で犯罪者を打ち負かす選択肢など、やりようはいくらでもあるのである。


つぎに「いじめられる側にも原因がある」だが、先の例で腕ごと時計を持っていかれた場合でいくと、情報収集が足りないという原因や危機意識が低かったという原因があったと言える。だから被害者に原因があることもある。被害者に原因が無い場合というのは、厳密には被害者側からはその原因が分からないだけということも多い。加害者にはいじめる原因となる何かがあるのだ。そしてその原因は加害者に帰属することも被害者に帰属することもあるという認識が重要だ。


いじめる奴が絶対悪いという誤解

議論がまとまらない要因の一つがこれだ。何故かこの認識は共通認識、普遍的なものとして受け入れられている。だからまず、この認識に異議を唱えなくてはならないのだ。

犯罪行為というのは、社会において罰を受けるべき罪という価値観を共有している事柄に過ぎない。これを共有できていない場合には犯罪行為は発生するし、共有できていたとしても、加害者の価値観が社会の犯罪行為への価値観を凌駕するほどの域に達していれば、やはり発生する。

例えば、北センチネル島の宣教師殺害事件では、島の先住民族に宣教師は殺されている。社会の価値観では殺人は悪いことだが、その価値観が共有されていない先住民族にとっては島への脅威を退けた善い行いである。そして、この事件の興味深いところは、宣教師が島に向かったこと自体が犯罪であり「殺害された側にも原因がある」という論調にもなっていたことだ。しかし、宣教師も自分の宗教理念に従って、島に行くことが犯罪であると分かっていても、善行のために島に向かっているのだ。

何が善で何が悪なのか。当事者でも判断が難しいことを第三者が語れるわけがないのだ。

だから、「いじめる奴は悪くない」という論理も存在し得るということを認識頂きたい。

一方、「いじめられる側が悪い」というのは存在しないという認識で構わない。「いじめられる側にも原因がある」とほぼ同じ論理が成り立つが、それを「悪い」と決めつけるのは加害者のいじめる自分を正当化するための詭弁である。何故なら、加害者には基本的には「いじめない」という選択肢があるはずだからだ。


ここまでのまとめと救済対象

まとめると、

1.いじめは加害者と被害者の関連性から発生する。

2.いじめる側に必ず原因がある。

3.いじめられる側にも原因がある場合もある。

4.いじめる側が必ずしも悪いとは限らない。

5.いじめられる側は悪くない。

よって、いじめ問題を建設的かつ現実的に議論するならば、「いじめる側」にこそ、社会が救済を施さなくてはならないのだ。


切り離して考える

まとめで列挙した知見を思考実験でも考えてみる。

現在、いじめ加害者と被害者が同じコミュニティにいるとする。この両名を会わないようにそれぞれ別のコミュニティに切り離すとどうなるか。

当然、関連性が途絶えるのでいじめは停止する。(まとめの1の成立)

いじめられる側に原因があった場合は、新しいコミュニティでもいじめられる可能性がある。いじめる奴がいなければ、いじめは発生しない可能性もある。いずれにしろ、まとめの3と5の補強となる。

次にいじめる側が新しいコミュニティに入ったときである。

いじめる側に必ず原因があるため、切り離した先でも、いじめを行う可能性が高い。これは、いじめる原因が加害者に帰属している場合に起こり得る。要は被害者は誰でもよかったというパターンだ。そして、新しいコミュニティでいじめが行われなかった場合は、被害者との関連性に原因があったということで、加害者自体は悪くなかった可能性がある。(まとめの2と4)

このいじめる側の観点が重要となる。

被害者の取り扱いについて

いじめの被害者は犯罪被害者である。思考実験では、被害者にも原因があったかもしれないという要素に触れているが実際問題そんなことはどうでもよく、必要なのはアフターケアのみである。犯罪被害者が何をどうしたって報われないのは古今東西の共通課題だろう。だから私からは、お気の毒でした。強くあれ!とだけ言わせてもらう。


加害者を救済する理由

これは単純な理由で、次の被害者を出さないことにある。いじめる奴がいなければいじめられる奴はいないというのは真理だからだ。いじめ問題という枠の中では、何故いじめるかはどうでもよかったが、加害者救済という視点では、この何故は追及しなくてはならない。

いじめる要因を大別すると下記のようになる。

1.社会の価値観の共有が不十分

2.社会の価値観を凌駕する個人の価値観

この、2点については犯罪全般の共通項目で前述している。いじめにおいては次の内容が重要だ。

3.犯罪行為にあたるような内容でしか、他者と関係性を作ったり維持したりができないという、思考力、忍耐力等の欠落や未成熟。

つまりは、いじめ加害者は可哀想な人間なのだ。生きていく上で、アイデンティティを保つ上で、いじめる以外の選択肢しか選べなかったのだ。だから、いじめ以外の方法や人との付き合い方を教えていく救済が必要となるのだ。

多くのいじめた側の人も成長するにつれ、適切なコミュニケーション方法を見いだし、やがていじめはしなくなる。いじめ問題は学生らが話の主体になるのは未成熟のためである。大人になってもいじめる奴は、成長も救済もされなかった哀れな生物だ。

昔、いじめたことがあるなどと反省的に語る大人は成長した人間だ。

昔、いじめたことがあると武勇伝的に語ったり反省の色がない奴は救済されなかった生物だ。

そう、東京五輪小山田問題である。


小山田問題を考察

さらりと要点だけを解説すると、

学生時代にいじめをした。

大人になってからも、嘲笑的にそのことを話し、メディア掲載されること複数回。

東京五輪の関係者として不適切とバッシングを受け、辞任に追い込まれる。

彼も救済されなかった可哀想な生物なのだ。

彼の行ったいじめ内容が余りにもひどかったらしく猛バッシングを受けたわけだが、私はこの世間の行為を残念に思う。いじめの内容は全く関係ないというのが正しい姿勢である。どんな酷いいじめ内容でも、客観的にみてそこまで酷くない内容でも、いじめはいじめで犯罪行為にかわりなく、同等に扱われなくてはならないのに、世の中の多くはその視点をもっていない。(例えば、コンビニで無断で携帯の充電をして、電気代約0.2円を窃盗して逮捕された。というニュースとタンス預金の1億円を窃盗されたというニュースを同列で考える視点が欠落しているのだ。同じ窃盗という犯罪で金額の多寡は関係ないし、犯罪の着手の容易さや悪質性も関係ない)

彼のかわいそうなところは、いじめを行っていた時やそれを語った時に、誰一人としてそれはおかしいんじゃないかと、彼が改心する程まで言ってあげられなかったことだろう。自力で成長できず、他者からの働きかけもなく、かくして彼は大人ではなくクソな生物へとなってしまったのだ。

罪を憎んで人を憎まず。

彼の行った犯罪は許されざることだ。それは間違いないし贖罪もすべきだ。ただ、私は彼だけが悪いとは思わないし、哀れみこそすれ憎んだりはしない。彼の周囲の人間や社会が、彼を救済できなかったことにこそ問題があるのだ。


何故、いじめ論争は加熱するのか

これは、生きていく過程で全人類がいじめ問題に絶対に触れたことがあるからである。そして、その中でそれぞれの価値観を形成しているからに他ならない。

例えば、女性専用車両問題。これが噛み合わない議論になり、一時加熱していたのは、女性は痴漢被害にあったり被害の話をよく耳にするため、痴漢対策としての専用車両という観点で議論に臨む。一方男性は、痴漢被害にあう人は少なく痴漢対策としての専用車両というより、男女差別的な観点で議論に臨む。そして、女性は女性優待デーなどがある現実も相まって、女性専用車両が存在することに疑問を持たない人もおり、全く議論が噛み合わないためだ。しかし、これが議論になるのは都心部に関してだけだろう。電車を使わない人や専用車両を何とも思っていない人は、無関心でいるからだ。

だが、いじめは違う。無関心ではいられないのだ。自分がいつ被害者や加害者になるか分からないから、無関心ではいられない。だから、いじめ問題をどう捉えるかを、それぞれが価値観として形成しているのだ。しかも、いじめる側にもいじめられる側にも直接的にも間接的にも触れているため、どちらの視点も併せ持ち、その価値観は千差万別。それが日本に限定しても1億以上の人の数だけ存在している。

にも関わらず、いやだからこそと言うべきか、いじめの定義付けを行わずに、共通認識されているものとして議論を始めてしまうために、何をどうしても良い結論にはたどり着けない。というのが私の見解だ。

そう、全くたどり着けないのだが、それでも皆たどり着きたいからこそ、議論は終わることがない。何度も、何度でも。

共通しているのは、社会を良くしていきたいという意思。強く優しい意思である。


まとめ、伝えたかったこと

今現在いじめられている人、過去に受けたキズに苛まれている人、過去のいじめた経験を自身で処理しきれない人、その他色んな思いを胸に秘めた人たちへ。

これからの未来に同じ悲しみを連鎖させないために、いじめ問題についてもう少し深い視点で考えて、社会全体の価値観を醸成していけたらな。というお話。

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