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「推し」とはなんぞや。 分類を試みて気づいたこと

「推し」という言葉を考えてみた結果、見事に頭から突っ込んで足先までズブズブに入り込む底なし沼だった。

色々考えた結果、最終的にたどり着く見解は

推しは無限大なり

たったこれだけである。

既に広く認知されている言葉だと思うが、まずは辞典から確認しておこう。

おし【推し】
他の人にすすめること。また俗に、人にすすめたいほど気に入っている人や物。
[補説] アイドルグループの中で最も応援しているメンバーを意味する語「推しメン」が流行したことから、多く、アイドルや俳優などについていう。

出典:デジタル大辞泉

辞典の表現では私の思っていた意味と大差ない。ただ、主としてアイドルや2次元キャラクターなどの手の届かない存在に対して使うものと認識していたが、そのくだりは補説扱いであり、対象の範囲はもっと広いことが予想できた。

そういう気持ちでnote内の推しに関する記事を読んでみたところ、どうやら私の考えは相当甘かったらしい。そこには、多種多様の推しが表現されていた。それらを私なりに解釈し、その一部を列挙してみる。が、あまり意味はないので参考程度に。

推しとは
【対象】∶好きな人、彼氏彼女、片想い相手、非一般人、2次元キャラ、物質、自然現象
【行為】∶推薦、応援、投資、寄付、支援、時間的投資、記録、保存、伝承
【推しの立ち位置】:神、骨、太陽、月、心の隣人、土台、自分そのもの(同化)
【自分の立ち位置】∶排他、同盟、協働、土台、影、存在してはいけないもの
【感情】∶好き、独占欲、恋愛感情、承認欲求、自己実現欲求、自己犠牲、存在意義
【視点】∶尊敬、敬愛、親心、羨望、同列、仲間
【終着点】∶恋愛関係、持続性、対象の幸福、対象の普遍的評価、無関係性、共存

note内の色んな記事を参考

推しとは、こういった要素を組み合わせたもの。要素はそれこそ無限にありそうだ。

予想通りアイドルなどに対して使っている人が多かったが、現実の恋人に対して使っている人も見受けられた。無機物に使っている人もいた。

相反する要素もあるのに、人によってはいずれも推しだとしている。つまり、人によりその定義も認識も全く異なるということだ。

言葉は生き物とはよく聞くが、推しという言葉も進化し続けているようで、私はこの言葉を定義して捉えることを諦めた。それはきっと無粋なことでもある。しかしながら、考察を深めていく過程で、これらをタイプごとに分類できるのではないかと思い至り、まとめてみた次第である。

分類を試みた考察パートと、おまけ程度の随想パートの二部構成としている。

推しの分類

タイプ1 好き発展型 (所属の欲求)

2次元キャラクターやアイドルなどを推す場合はまずここに分類される。その後、その人個人が好きなのか、その人の持つ何かに惹かれるのかに細分化されていくこともある。

最も原始的な推しの型である。そして、最も手軽に推しを語れる。その方法は、対象が好きだの推しだのと意思表示するだけだからだ。それだけで、その推しを推す共同体に所属することが出来て安心できるのだ。たとえ、その共同体に属するのが自分一人だけでも、自分の気持ちを確認出来ることで安堵する。

例えば、好きなバンドがいたとする。そのバンドの作る曲が好きになった。しかし、バンドメンバー自体は好きにならなかった。こういった場合には、そのバンドでなく創作物にあたる楽曲が推し対象となっているといえよう。これを更に分解すると作曲家が好きだったと気付く事もあるかもしれない。いや、この曲をこのバンドが奏でるから好きになったという意見も認められる。このようにして、好きなものは無数に存在し、それらを単純に好きだと意思表示するだけでこのタイプの推しとして成立する。

推しというと、個人を推すことが多いイメージがある。アイドル界隈が特に顕著だと思われる。これを後押ししたのがSNSをはじめとして情報革命にあると考えられる。昔はせいぜい、音楽番組やバラエティ番組、雑誌等のインタビュー程度でしか、人となりを知ることは出来なかった。しかし、現代は個人個人が自由に発信し交流することが可能となり、より身近な存在になり1人の対象として推すことができるようになったのだ。

その人のことを理解したいと思う。それが好意に変わる。好意があることを行為で示す。推しの誕生である。その最も手軽な行為がSNSによる発信のため、その普及と共に推しブームが拡がったのだろう。

ここで重要なのが、このタイプに属する推し対象は具体的であるという点だ。個人なのか、容姿なのか、性格なのか。どこを好きにるかは人それぞれだが、いずれにしろ好意的に解釈したものを根拠に推し始める。そして、そこに推し対象からの反射は必ずしも必要としない。そのため、無機物などに対しても推しという言葉を使うことが可能となっていると思われる。
(ここでいう反射とは、推し対象から直接個人に何かアクションがあることに限らず、推し対象が芸能活動を続けたり、SNSを更新したりといった推す個人が認知できる、推し対象の諸要素全般を指す)


タイプ2 対象貢献型ならびに自分推し  (承認欲求)

おそらくは、推しの語源ともいうべきアイドルグループの総選挙的な要素から認知の高まったものと考えられるタイプである。

この選挙という方式が実に絶妙で、グループの中で特定自分物を「推す」という推薦の推すと、順位が発生していない状況からの選挙で、下から他者を振り切って上位に押し上げるの「押す」とが合わさっていると感じる。

下から押すという行為は、そのまま土台となる事、盛り土をすることを彷彿させ、それ即ち金銭や時間を貢ぐことと捉えられそうだ。

自分のおかげで、上位に上り詰めることができたという事実が、自己肯定感を満たすとともに、所属するファンという名の共同体に対して、自分の存在感をアピールできる。他者承認も得ることができるのだ。

もちろん、他者承認を求めていない純粋な意味で推し対象を応援したいという人もいる。だが、この人達も、その対象にコストをかけているその事実に対して満足感を得ている場合は、自己承認を満たしているように感じられる。

また、推し対象のアイドルに恋愛感情などの過度な期待を持っていたりする人たちもここに該当すると考えられる。推しを推すことによる見返りを求めている場合は、見返りを得る自分自身にその推し行為の原動力があると見てよいだろう。
「俺が応援しているからこのアイドルは活動を続けられる」などの根拠なき自信に満ちた人も同様だ。
「ワタシはこんなに尽くしてあげてるのに、パートナーは何もしてくれない」などの愚痴をこぼす人も同様だ。

次に、「推しがいるから私も頑張れる!」系のうちの一部もこちらに属する。推し活(推し行為の諸活動)をするために働いてお金を稼ぐ、来月イベント参加するなどの、推しを外的要因として自分のモチベーションに変換している場合はこのタイプに見える。(そうでない場合は、後述のタイプ3にあたると考えている。)

このタイプに属する人たちは結局のところ、推しを推しているようで、推しを推している自分を推しているように見えるのだ。

そのため、何らかの理由で自分を推すことができなくなった推し対象には興味を示さなくなりすぐに離れたりするし、そもそも推し対象が多かったりもするのではなかろうか。推しが社会的に良くない事をしでかした時にすぐさま手のひら返しをするようなイメージだ。

また、推し対象が表舞台から去ってしまった時の対応方法でも判断できそうだ。このタイプに属する人は、推していることによる反射がないと満足感を得られない。グッズの購入、イベントへの参加、SNSのチェック。こういったものを通して推し対象が活動を継続しているという反射がないことには、そこに価値を見いだせなくなるのではないか。こういった意味でも、推し対象がすぐに変わったりしてしまうのは、推している自分を推しているという要素があるように窺える。

このタイプの推し対象は具体的な人物やキャラクターの全体像になっている。いわゆる、「推し」という言葉の印象として一番近いのがこのタイプであると予想される。NHKの推しを調査した企画では、「熱く情熱を注いで応援している『人物』または『キャラクター』を指す」と定義していたようだ。

タイプ3 自己実現型 (自己実現欲求)

自らは、推し対象から認知される必要もなくただ支えになりたいという純粋な気持ち。あるいは、そういう意識すらなく、推しが人生の全てとも言えるほどの気持ちがある人がこのタイプに属する気がする。

平たく言えば、ただ存在してくれているだけでよいという思い。そこに「愛」があるのだと感じられる人たちのことだ。(ただ、他人からはその人がタイプ2と3のどちらであるかの判断は出来ない事は言い添えておく。)

推しを語る上で避けては通れない言葉がある。「推しが尊い」だ。真に「推しが尊い」という言葉を使うのは、このタイプの人たちだけであると私は思う。尊いという言葉は本当に尊いのだ。

個人的に尊いという表現は、その対象とするものは無数にあったり、その範囲が広大なイメージのものから、範囲の狭い対象に絞って語るときにこそ使うべきだと思っている。

例えば、「虫の命も尊い」というのは、命というあらゆる生物に備わるものを指しつつ、その中の虫という比較的軽視されがちな存在に範囲を狭めても、命は大事だという価値観は通じるものがあるよね。という意味だと私は解釈している。尊いの語義で言えば、たいへん価値があるとか、貴重であると言った意味であるが、そこには必ず比較対象がなくてはならない。尊いは、その比較対象の範囲が広大な中で、それこそが価値があるという意味なのだ。

その広大な範囲の中で「推し尊い」。言い換えると、「あらゆる好意を持つことが可能な対象の中でも、(わたしの)推しこそが尊い」ということである。
「古今東西森羅万象天上天下唯推独尊」である。

推しを推している人というのは、引くほどの情熱を見せる人もいる。それこそ、自分の生活を投げ売ってでも推していると感じることもある。ここには、敬虔な信者が宗教の戒律に従い、自分を厳しく戒めているような、そんな思いが感じられるのだ。それはやはり「推しこそが尊い」という表現がしっくりくる気がする。

ここまで言わせしめる存在に出会えたならば、並大抵のことでは推しが推しでなくなるという事態にはならないような気がする。だからこそ、「推しが尊い」という言葉に本気を感じられるのは、この自己実現型タイプだけなのである。

推し対象から意思や感情などを受け取ることによって、推しが自分を象るという感覚や、人生のすべてだったり背骨だったりという表現をするのも肯ける。そして、推し対象が消失してもそれによって象られた自分や、そこで見出した自分の意思や感情は消失することはない。

ここまで到達すれば、それ以降は推し対象からの反射を必要としないのである。具体的であるはずの推し対象が、概念的なもの、まるで一神教の神のような存在になって、それを崇めるような気持ちでいる状態がこのタイプの人たちなのかもしれない。

推すという行為に目を向ける

次に、推すという行為そのものにちゃんと向きあって、上記分類と照らしてみよう。

推すというのは、推薦するという意味合いが強いと感じられる。つまり、
誰が(推し行為者)
・誰に(推し目標)
・何を推すのか(推し対象)
これが分かる場合においてのみ、本来は成立する言葉だと思われる。推し対象とその目標がなくては推す事はできない。また、対象のことを「好きでなくとも推薦」することはできるが、「好きではないけど推し」が観念できるかは疑問だ。そのため、好き≒推しと認識する人が多いのは理解出来る。

この認識に至る理由としては、SNSが深く関わると考えてよいだろう。ツイッターなどで「○○が好きだ」というだけで世界に対して発信してしまうので、自動的に推していることになってしまうからだ。

とはいえ、タイプ1の場合は、あくまでも推し目標は自分となると考えられる。これは、「私は私の中にこの人が好きだという気持ちがあるのを確認した(ので、SNSでそれを発信した)」という流れが根本にあるためだ。

そして、タイプ2の場合の、推しを推すことで自分を推す人は、推すことで自分の存在を他者に示す必要がある。つまり、「私は同じ共同体に属するあなた方に、あなた方と同じ人を好きだと表明するとともに、私の推しへの熱量を示す」といった具合だろうか。ここの感覚は、人により異なるのでうまく表現しきれないが、ファンの中での序列を意識するような言動をする人をイメージしてもらうと理解しやすいかもしれない。

ファンクラブ歴、今まで買ったグッズの総額、選挙型企画やスパチャへの投資金額、イベントの参加率、SNSでコメントをもらった回数、その他マウントをとれる要素で、他者を上回る要素を挙げ連ねる人である。同じファンから見ても、疎ましく感じることだろう。それは、推し対象ではなく結局は自分を推している(自慢している)のが透けて見えるから、ということもありそうだ。

最後にタイプ3の場合だが、これは形容し難い。強いて言うなら推し目標は自分となる。「私にとって推しとは○○(人生、生きがいetc…)」という具合に、自分の中に推し対象を取り込むかのように感じられる状態。
「あなたにとって推し対象とは何ですか?」の質問に自分の言葉でしっかりと答えられそうな状態。

タイプ3とタイプ1は推し目標が自分という点では一致している。これらの違いは、タイプ3が、最初は推し対象からの反射が必要なことにある。
反射が必要なのはタイプ2と一致している。これらの違いは、タイプ2が反射があること自体に価値を置くのに対して、タイプ3は反射を自分の中に取り込むことに価値を置く点である。良い面も悪い面も全て受け入れるということである。

分類を終えて

各タイプの変遷は、下記のようになると思われる。

推しを推し続ける状態

  • タイプ1→タイプ2→タイプ3

  • タイプ1→タイプ3

  • タイプ1を維持

  • タイプ1→タイプ2を維持

推しをやめる時

  • タイプ1→推しをやめる

  • タイプ1→タイプ2→推しをやめる


何はなくとも対象を好きにならなくては始まらないのでタイプ1からスタートするが、どういった経緯をたどるかは千差万別だろう。

タイプ3の人でも推しをやめること自体はありえるだろうが、敢えて表記していない。

おそらくタイプ3の場合は、推しをやめるという認識にはならず、自分と完全に同化するかのように消失するという感覚に近いと思う。過去の偉人の名言を座右の銘とし、普段意識することなくその言葉によって生きている状態が近いかもしれない。


(考察パートの)最後に

ほとんどの推しは、これらの分類とその派生として捉えられそうだ。
ただ、
『推しは無限大なり』という認識は揺るがず、今後もこの言葉は進化し続けるだろうから、この分類から外れるものも生まれるだろう。

好きなものや人は、人の数だけ無数にあるし、その形も濃淡も表現方法も人それぞれだ。また、推しから何を受け取るかも、受け取ったものから自分が何をして行くかも人それぞれ違う。そこには優劣もないし貴賤もない。それらは等しく尊いものだと感じられる。
そう、「推しは尊い」のだ。



記事を書くにあたって(随想パート)

色んな記事を読んで感じたことについても書こうと思う。上の考察パートに入れると取っ散らかるので、分けてみた。

マズローの欲求段階説

ピラミッド型で表記される有名な図のせいで誤解されていることも多いが、下から順番にしか満たされないものではない。承認欲求を飛ばして自己実現を達成することはあるのだ。

お気づきの方もいると思うが、推しの各タイプに括弧書きでマズローの欲求段階説の段階名を記載している。これは、記事をまとめていく途中で書き足したもの。私の作った分類もよくよく考えるとこの説に準じていたということだ。

5段階目の自己実現欲求は実は2つある
(別物扱いで計6段階という説もある)

マズローの欲求段階説は5段階あるという説明がよくなされている。私も学生時分にはこのように習った。

最近は、5段階の最上位にあたる自己実現欲求は意識的な自己実現と、より上位の無意識的な自己実現に分けられると解説されるそうだ。あるいは、5段階目を自己実現欲求とし、6段階目に自己超越という階層を設けた考え方もあるようだ。

意識的な自己実現とは、何かをやろうとか、これをすることが私を私たらしめるとか、そういう目的意識的なものが内在している場合を指す。超一流の刀鍛冶が、自分こそが最上級の業物を造れると自負して、黒鉄を打っている状態などがこれ。

対して、無意識的な自己実現(自己超越)とは、作家が本当に書きたいことを、評価などを気にせず、寝食を忘れて書き続け、書き終えた時に強い満足感を得られるというような状態を指すと考える。

推し行為による自己実現

推しについて語っているnoteを見ていると、狂気じみたものを感じることが多々あった。(念の為補足すると、最大級の褒め言葉である。)

その推し対象のことを、私は全く知らないのだが、文章からにじみ出てくる感情がダイレクトに伝わる。語られている人やキャラクターを知らない故に、主観も共感も無いフラットな気持ちで読んでいるにも関わらず、心に訴えかけるパワーは尋常でなかった。

抑えきれない想いが溢れ出るそれは、とんでもない文字数だったり、100枚以上の画像を挿入してあったりもするのだが、一気に読み終えてしまうほど私をのめり込ませた。きっと、書いている本人らも、あっという間に仕上げてしまったのだと思われる。一種のフロー状態になっていたのだと思う。つまり、無意識的な自己実現の顕現である。

この体験から、推しを推すというのは、人によっては承認欲求を通り越して自己実現を叶えている状態にあると感じた。タイプ2を経ずにタイプ3に至る人がこれに当たるのだと思う。この人達は、それと気づかずに幸福の中にいるのだと思う。

推しを推している人は輝いている

推しブームの一翼を担っているのが、先んじてこの自己実現欲求を満たしている人たちのSNSによる発信の影響だと思った。

SNSで発信されている彼らのその熱い思いに、我々は否応なく感化され、自分でも表現したい、自分にも出来るかもしれないと思えるし、その一歩を踏み出す勇気ももらえるのだ。

この憂いに満ちた現代において、明るい希望となるのが推しという存在なのかもしれない。そして、それを推す人もまた光となる。輝いている。

彼らに照らされた世界はきっと明るく素敵なものなのだろうと思った。

で、キミの推しは誰なんだい?

最後に、私には推しがいるか、だ。この記事を書くまでは存在しないと考えていた。だが、タイプ3を語る中で「愛」という言葉を用いた。これに沿って考えると私の推しは妻子になるのだと思う。

私は彼女らを、身を挺してでも守るつもりであるし、必要であれば過干渉になるし、逆に私の存在が害になるようであれば、気配を完全に絶つことさえも辞さない。いずれにせよ、彼女らにとって何が最善かを考えて行動すると決心している。

これは、日々の生活の中で受け取る彼女らからの愛情という名の反射を私の内に取り込み、行動方針を決めているということになる。

そして彼女らも、そんな私の言動を愛情という名の反射として受け取ってくれるならば、これは「推し合い」の状態である。一般的にこれは、「愛し合う」と表現されるものだろう。

「推し」が何たるかを結論することは出来なかったが、推し行為を昇華し続けると「愛」になるのは、確からしく感じられた。

今までは推しだの何だの言っている人を、少し冷めた目で見ていたものだが、この考察を通して、彼らもまた小さな光であり、愛の種であると感じた。その光に目を向け、種に水をやることを進んで行おうと思えるようになった。

こうやって、推しを推す人を推すという円環が形成できれば、世界は愛に包まれるのかもしれない。

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