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『白票に意味はあるか、ないか』という議論には意味がある

はじめに

先日柄にもなく選挙の記事を書いたら、noteさんがたくさん関連記事をオススメしてくれたのでいくつか拝読していたところ、気になる言葉が目に入った。

『白票に意味はあるか、ないか』

選挙があるたびに、そこそこ話題にはなっているらしい。今回はこれについて持論を述べたいと思う。

なお、私はあまり選挙制度に詳しくないので、得票による発言力やら名簿の順番やら政党助成金やらは一切考慮せずに書く。


まず言いたいこと

白票に意味がある派と無い派の意見を見ていたところ、どうやら語る視点や論点が全然違うようだ。そりゃ一向に争いが治まるわけがない。という感想。

だから、それぞれの視点において意味があるかどうかを細かく書かなくては、それこそ意味がない記事になってしまうので、あー大変だ。


視点・論点の分解

ざっくりと下記の2軸とその両極に分類できる。

x軸 「今(の選挙)」と「未来(の選挙)」
y軸 「個人」と「社会」

意見を見ていると、こういった立ち位置をどこかを定めずに意見しており、その反論もまた別の立ち位置から述べられるので、収拾がつかない有り様だ。図にするとこうなる。

以下、この図を参考に考える。

ては、順に考えてみよう。

「今」と「社会」の象限(図の左上)

これはズバリ、選挙によりどういう結果になるかということにフォーカスした立場だ。雑に言えば、与党による現状維持か野党が強くなって改革を期待するか、どちらの意見にあるか、ということになる。

この立場で言えば、「白票は完全に無意味」である。何故ならば白票は無効票扱いとなる。そして、選挙結果は有効票数により決定される。そのため、無効票はなんの意味も持たない。絶対に。

しかし、ここで持論を少し挟ませてもらうと、この立場を突き詰めるならば、「当落線上にない候補者への投票は無意味」ともいえるし、「与党あるいは野党第一党以外への投票は無意味」ともいえる。
もちろん、たとえ当落線上にない候補者への1票でも結果が変わるかも知れないという言説は理解できるし可能性もゼロではないのだろうが、世論調査や下馬評などで一定レベルまでは票の行方を推測できる以上、有権者は合理的に判断して投票先を躊躇なく変えることを求められるように感じる。なぜなら、当選確実な候補者に入れようが入れまいが結果は変わらないし、落選確実な候補者に投票するのも無意味だからだ。この立場にあるものは、結果が変わらない(可能性が高い)ことは意味がないと断ずる必要があるように感じられる。

さて、話を戻してこの「今」と「社会」の立場での投票先は下記のように捉えるのが筋だ。
つまり、「この選挙結果で社会をどうしたいか」という立場で言えば、

・与党(現状維持)
・野党第一党(改革期待)
合理的手法として
・当落線上の支持候補者(第二、三候補など)
・当落線上で争う不支持候補者のライバル
 (不支持候補者を落選させるための作戦)

これらが意味のある投票であると考えられる。実際、このように投票先を選ぶ人というのも多そうだ。

繰り返すが、この立場で言えば白票は無意味であり、投票すらしない棄権と全く同じである。


「未来」と「社会」の象限(図の右上)

「今」のほうでは、泡沫政党に投票しても無意味だと断じた。しかし、そうは思わない方も多いだろう。そういった方々はきっと、こちらの象限の立場の方も含まれる。そして、肝心の白票についてだが、この立場で言えば、「白票には僅かながら意味がある」といえる。(同時に、僅かすぎてゼロに近似するから意味がないという意見もこの立場の人からは出るだろうし、それは理解できる。)

白票でも投票率は上がる。「今の選挙」に関しては、投票率がどうであろうが結果には影響はないが、「未来の選挙」を考える上で「今の選挙」の投票率がどれくらいあったかは、若干の影響があると考えられる。詳細を述べると長くなりすぎるのでざっくり書くと、投票率が上がることで不利になるのは与党であるから、何かしらの改革がなされるかもしれないという期待がもてる。つまり白票は「未来」の「社会」に良い変化を与えるかも知れない。と、こう考えているように見受けられた。

またまた持論を挟ませてもらうと、意識していない人が多いようだが「白票じゃなく有効票でも投票率は上がる」のだ。投票率を上げるがために白票を投じようと意気込むのは、目的がすり替わっている。投票率を上げたいだけらならば、投票先はくじ引きでもいいのだから。

また、「今の選挙」という視点では白票同様に無意味であった泡沫政党への投票に関してだが、こちらのほうがまだ白票よりかは得票数という支持された数が見える分、影響力という点ではマシである。なお、投票率への影響は同じであることは忘れてはならない。この点において、くじ引きで泡沫政党に投票した場合と白票を投じた場合では、くじ引きであっても泡沫政党に票を投じた方が「社会」にとって意味はある。


この象限においての投票について、投票率という点と未来の選挙への影響という論点で言えば、

・どの政党や候補者に入れても意味はある
・白票でも僅かながら意味はある

しかしながら、影響力の差は歴然としてあり、その大きさを簡単にまとめると
与党≧野党>泡沫政党>>>白票 となる。


「個人」視点の人が見落としている事

これまで「社会」の側の視点で白票や投票について述べた。次に、「個人」の視点で述べていくが、まずこの「個人」の側に立つ人の多くが抜け落ちている感覚があるように感じられたのでそれをまずは伝えたい。

あなたが候補の中から一つを選ぶことができなかったり、明確な意思のもと『選ばないこと』を選択しても、候補の中から絶対に選ばれる

私の考える選挙の本質

ということ。このことを理解した上で、「それでも選びたくない」というあなたの意思は尊重されるべきだと私は考えている、ということは言い添えておく。


「今」&「未来」と「個人」の側(図の下側)

この「個人」の側における「今」と「未来」は区別せずにまとめて述べよう。

まず、有効票を投じる方は、「社会」がどうのなどを考える必要もなく、「個人」の意思を投じるということで、文句なしに素晴らしいと思う。そして、この人達に関しては「今」ができていれば「未来」も同じように出来るだろうから、「今」と「未来」の区別は必要ない。

問題になるのは「棄権する人」と「白票を投じる人」である。

この「個人」の側の視点の方は、選挙や投票を個人の(意思表示の為の)ものとして捉えているため、「棄権も白票も意味がある」と考える人がいてもいいし、自己満足という意味合いでは当然意味がある。また、自己満足それ自体を否定することなど他者には出来ない。だからどれだけ白票には意味がないと言っても、それこそ無意味だ。投票しないことに罰則が無い日本であるから、自己満足のために有効票を投じない権利も認められていると私は考えている。

しかし同時に、この白票(棄権も含む)に至るまでの経緯がこの立場の人たちには肝心となるとも考えている。
「白票を投じることに意味を見出している」か「熟考の結果として白票を投じたか」では、「今」と「未来」のどちらの視点であるかが違うと考えているからだ。

前者は、白票入れてやったぜ! で、完結してしまっているような人や、よくわからないから白票にした。というような「今」しか見ていない場合を指す。もっと言えば「今」すら見えていない可能性も高い。

後者は、しっかり考えた上での白票という人を指す。しっかり考えるということは、各候補者や政党の公約などを吟味して、自分の意思とは違うという判断をしていくということになるはずだ。言い換えれば、自分の意思がある程度明確になっているということだ。つまり、考えぬいた白票には「自分の意思を確認したという意味がある」とも言える。

中には、このように考える人のことを理解出来ないという人もいるかもしれない。そこでこんな思考実験を用意した。


あなたは婚活パーティーに参加した。
気になる異性を記名して、見事相手も自分を記名していれば即結婚するというルールだった。
あなたはとても魅力的な人で、参加者の異性全員から記名されることは確実だった。
(つまり、自分が記名した相手と確実に結婚できる)
しかし、参加者の中にあなたの好みと完全にマッチした異性は一人もいなかった。
さて、あなたは誰かを記名するか。

参加者の中には、そこそこ気に入る異性もいるかもしれないが、全てが希望どおりでないと絶対に結婚したくない、という人の存在も観念できる。その人にとっては記名しないという行為は、自分の意思や尊厳を認識しそれを守るという意味合いで大いに意味があるといえるだろう。

また、どこまでなら自分の意思を妥協することが出来るかというのも見えてくるだろうから、次の婚活パーティーの際に選択肢が広がる可能性も出てくる。もちろん、婚活パーティーじゃなく日常生活でも出逢いに気づけるようになるかもしれない。無記名は、次に活かせるのだ。

「今」の意思の認識は「未来」の意思の策定に意味があるのだ。


ここで、選挙と結婚を同列にするなと反論があるかもしれない。それに対する解答は既に述べている通り、「社会」視点で見るか「個人」視点で見るかということになる。「個人」の視点にたてば、婚活も選挙も同じ土俵になる。(結婚なんてしたくない。と考える人がいるように投票なんてしたくないと考える人も観念できるわけだ。)


一人でも多くの人に投票してもらうために、我々は議論をし続けるべきだ

ようやく、本記事のタイトルの内容に入る。

そもそもとして、この議論が起こるのは一人でも多くの人が有効票を投じることを目指したものであるはずだ。

冒頭で、議論の視点や論点が違うから収拾がつかないと述べたが、実はそれでいいのかもしれない。何故なら、これまで述べてきた様々な視点で選挙のことを人それぞれが関心を持って考えてくれればそれでよいからだ。この議論の存在意義はそこにしかないと言ってもいいくらいだ。


とは言え、選挙の本質――今、誰かは必ず選ばれるということを考えれば、全国民が「今」と「社会」の視点に立つことが望ましいとも思う。だから白票は無意味だと声高に叫ぶ人が多いのだと思う。しかし、響かない声では意味がない

繰り返しになるが、一番の問題は「個人」の側の視点にいる人で「棄権したり白票を投じる人」の存在であるから、その人達に響く言葉を使わなくてはいけない。

特に「今」と「個人」の象限にいる人が、いきなり「今」と「社会」の象限(白票も棄権も意味がないと考える)ようになるのは難しいからだ。だから、迂回させてやらなければならない。

左下から矢印に沿って見てほしい。
それぞれの象限の人に対して、赤矢印の白文字の
アプローチをしていくことが望ましいと考える。


このようにアプローチしていけば、有効票を投じる人が増えるはずだ。

その第一段階の役目を果たすのが、「白票でも良いから投票しよう」という言説であり、これには大きな意味がある。この立場を採って、関心をもつ人が増えてとりあえず投票しに行く人が増えれば「未来の選挙」に変化があるかもしれない。

そして第二段階として、「(せっかく投票に行くのなら)白票では意味が無いから有効票を投じよう」という言説がようやく響くようになる。

どちらの言説も必要なのだ。だからもっと議論は白熱してもいいし、多くの人が語ればなお良い。


現状としては、日本の投票率はとても低い。これに歯止めをかけることが私は大事だと思っている。だから、個人的には「白票には意味がある」派のスタンスでいる。しかし、投票率が上がっていけば「白票には意味がない」派に乗り換える気でいるし、そうなることを願っている。
(というより今でも直接話す際は相手を見て、どんな言葉が最善かを考えて話しているけどね。)


敢えて言おう「白票でもいいから選挙に行こう」と。

「個人」の視点から「社会」への視点になることは難しいかもしれない。投票してもどうせ社会は何も変わらないと思っている人は多いと思う。だから無理に「社会」視点なんて持たなくて良い。「個人」として自分自身がどう考えているかを大切にしてほしい。そうしたら、「今」だけじゃなくて「未来」視点になることは出来るんじゃないかな。そうすれば、選挙も行くようになるかもしれないし、そうすることで「社会」が変わることもあると思う。だって、「社会」ってのは「個人」の集まりだろう? その「個人」の意思を聞く場が選挙だろう?

未来の選挙に託して、今は白票のままでもいいんだ。その白票に”書き込んだ”自分の思いを次の選挙時に思い出してほしい。考え抜いた末の白票は自分へのvoteだ。そういう思いで、選挙に足を運んでほしいと思う。その次も、ずっと先の未来も。


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