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■【より道‐23】ノモンハン戦争に至るまで②

司馬遼太郎さん原作のドラマ「坂の上の雲」にはこのようなシーンがあった。明治三十八年(1905年)の日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を殲滅した日本の連合艦隊は、東郷平八郎司令長官のもと「解散式」を行い、そのさいに作戦参謀で勝利の立役者、秋山真之が起草した「連合艦隊解散ノ辞」を読み上げ、最後には「古人曰く、勝って兜の緒を締めよ」と締めくくった。

しかし、秋山真之さんの思いは、残念ながらわずか数十年で叶わぬ願いとなってしまったんだなぁと、司馬遼太郎さんの表現に感化されてしまう。



【ノモンハン戦争に至るまで②】
張作霖爆殺事件の首謀者である河本大作参謀の後に関東軍参謀長として着任したのが石原莞爾さん。自分のお祖父ちゃん、長谷部輿一さんが石原莞爾さんのことを尊敬していたと聞いたことがあるが、石原莞爾さんは「世界最終戦争論」をまとめた人だ。

その内容は『第一次世界大戦後、ひとときの平和が訪れたとしても、欧米列強は次の戦争を仕掛けてくる。それまでに日本は余計なことをせず、国力と戦力を蓄えるべきだ』と唱え、『そのために「満州」と「内蒙古」を日本の領地にするべきだ』と計画をたてた。もう少し具体的にいうと、アメリカとソ連がやがて戦うから、決勝戦で勝ち残ったアメリカと日本が戦おうというものだ。

そこで、関東軍の高級司令官や参謀たちは「満州」と「内蒙古」を手にいれるべく、自作自演で満州鉄道を爆破し軍隊を動かすことを策略する。それが、昭和六年(1931年)満州事変勃発の理由となる「柳条湖事件」だ。関東軍は鉄道を爆破すると「張作霖の息子、張学良率いる東北軍の仕業だ」として、張学良軍の攻撃を開始したのだった。

関東軍は自らの陰謀により「自衛戦争」の大義名分を無理やりつくったのだが満州全土を制圧するには兵力が足りない。すると、のちに内閣総理大臣になる林銑十郎・朝鮮司令長官が独断で関東軍に呼応し朝鮮から満州に軍隊を越境させたのだ。

朝鮮司令長官が死刑にあたいする軍律違反を犯し、軍隊を動かしたのだが、その報告を聞いた日本政府は「すでに朝鮮軍が越境してるならもうしかたがない」と特別予算まで出して手の付けられない状態となってしまったそうだ。国内世論も世界恐慌から脱却する満州事変に熱狂し、天皇陛下は「戦争を早く終わらせるように」と命令することしか出来なかった。

しかし、いくら日本が「自衛戦争」を主張したとしても、満州全域に勢力を広げていく様子に国際社会の目は厳しくなる。そこで関東軍は、イギリスやアメリカに利害関係のある上海で事件を起こし世界の目を満州から逸らすことを企てた。それが「上海事変」。反日分子の思想をもつ中国人に金を渡して日本人のお坊さんを殺害させる。そして「犯人をだせ!」といいがかりをつけると日本軍と中国軍が弾の撃ち合いを開始したのだ。

関東軍の狙い通り、国際社会の目が上海に向くと、その間に満州では着々と満州国建設の準備を進めていく。日本は、あくまで中国人による国づくりのサポートをしているという立場を示すために、清王朝のラストエンペラー溥儀ふぎを満州国の初代皇帝にして昭和七年(1932年)日本は満州国建設を承認したのだ。

もちろん、勝手に満州国の独立宣言をしたので、国民党の蒋介石は怒る。さらには中華民国国内で反日運動がより一層盛んになった。この状況をみた国際連盟は、実態調査をするために、日本、満州国、中華民国に調査団を派遣する。これが、有名な「リットン調査団」。

3ヶ月にわたる調査の結果、「柳条湖事件(満州事変の発端の事件)は日本の自衛戦争とは思えないけど、日本の満州国における特殊権益を認める」という、日本にとって悪くない内容を報告した。日本人が一生懸命、不毛の地、満州に都市をつくり、国をつくってきたことを認めてくれたのだ。

しかし、政府や軍、国内世論は、国際連盟が条件としてつきつけてきた「満州国からの一時撤兵」や「国際承認を得る」という内容がどうしても承服できず、昭和八年(1933年)に国際連盟を脱退してしまい、江戸時代のように再び鎖国の道を選んでしまうのだ。すでにこのとき「和を以て貴しとなす」という思想はこの国からなくなっていた。

その頃、日本国内では、さらに混とんとする事件が起こることになる。そのきっかけは、陸軍内部で「皇道派」と「統制派」にわかれ議論が過熱したことからはじまった。

「皇道派」は、戦国時代から続く反長州閥(反毛利)のながれをくんで、本当に困っている農村を助けるために天皇親政の下で国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向していた。対して「統制派」は、頭のいい合理的な人間たちが集まり、軍中央の一元統制、すなわち日本国民全員が一致団結して国家改造を図る計画。「対支一撃論」を推し進めた。

もともとは、ふたりの中堅将校の議論から始まったことらしいが、いつのまにか政治的な要素が加わって「統制派」が軍中央部の重職を担うようになり「皇道派」は封殺されるようになったという。

その機会をつくったのは、満州事変発生時に朝鮮から独断で軍を越境させた林銑十郎陸軍大臣。「皇道派」と「統制派」が揉めたとき、当時陸軍大臣だった荒木貞夫さんが、喧嘩両成敗ということでうまく着地させたのにもかかわらず、後継の林銑十郎大臣が「統制派」を中央陸軍に呼び戻し政治の全てを取りまとめる要職につかせ、さらには「皇道派」のメンバーを次々と地方に飛ばしたのだ。

そんなことから、こちらも有名な国内クーデター未遂事件、昭和十一年(1936年)に「二・二六事件」が発生するのだが、事件の経緯や理由は、何度勉強しても複雑で難しい。一度覚えてもすぐ忘れてしまうので、改めて調べ自分なりに解釈した内容は以下の通り。

「皇道派」の1500人ぐらいの陸軍が、「天皇陛下の本当のお気持ちを叶えるためには、長州派閥が牛耳るいまの政治環境ではできないだろう」と天皇陛下を支えていた側近たち(元首相など)を殺害して警視庁や宮城を制圧する行動にでた。

「皇道派」の若き将校たちが、天皇陛下の望みを叶え喜んでもらうために、自分たち「皇道派」のメンバーが「官軍」になることを目的にしたクーデターだったが、結果的には「朝敵」「逆賊」になってしまったという事件だ。

そりゃあそうだ。天皇陛下は、このときばかりは怒り狂ったらしい。自分の育ての親や、いままで相談にのってくれていた大切な側近を、自分の部下である陸軍の若者たちが無慈悲に殺害したのだから。カンカンに怒った。そんな天皇陛下の様子をみて「統制派」の石原莞爾大佐なども鎮圧の対策を練り、クーデターに参加した軍人に向けてビラをまくなどの対応をしたという。

このクーデター失敗の流れから「皇道派」の優秀な人材は退役に追い込まれたり最前線に送られて「統制派」が中央軍部をとりまとめる天下となった。奇しくも「二・二六事件」をきっかけに陸軍中央の体制は一枚岩となったのだ。その結果、やがて東条英機内閣が誕生することになり、悲惨な太平洋戦争を突き進むことになる。


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