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【69日目】帰郷中止のお知らせ

ご隠居からのメール:【帰郷中止のお知らせ】

天津からの船便を利用して帰国する予定だった母子は、予定変更して、渡航を中止せざるをえなくなった。なぜか?

日中戦争は泥沼化し、ノモンハン戦争は惨敗した、というのは戦後の見方である。いずれも単なる事変であって、戦争ではないし、第二次世界大戦が勃発しても、神州不滅の日本が負けるはずがないというのが、当時の常識的な見方だ。

日本では昭和十三年に国家総動員法が成立した。国家総動員とは武器を持たない女子供も戦争の最前線に立たせ、爆弾の雨にさらすという意味だ。いやだといえば、非国民と呼ばれる。お産のために内地へ帰りたいなどといえば、非国民と呼ばれかねない時局だった。悪妻とか大陸性がないと言われるより、非国民と呼ばれるほうがこたえる。

皮肉なことに、昭和十六年四月には日ソ中立条約が締結されたため、国境最前線の危険な張家口がかえって安全地帯に思えたのかもしれない。もっとも、ソ連は昭和二十年八月九日、一方的に中立条約を破棄して攻め寄せてくるまでのつかのまの平和でしかないが。

返信:【Re_帰郷中止のお知らせ】

今回の手紙は、貴美子さんにとって、酷な内容だったね。何ヶ月も前から、楽しみにしてたのに。まぁ、しかし、與一さんひとりの責任ではないでしょうね。悪妻、大陸性というのは、なかなか出てこない言葉。周囲の環境や空気感が、既にそのようになってたのでしょう。

上官から「国の大事に何を言ってるのか!」と、一蹴されれば、逆らえない。なにせ、敗戦の責任を、いち部隊長にとらせ自決させる軍と一蓮托生の政府で働いてるわけだから、、

ただ、世に出てる、戦時中の物語と違うのは、與一さんは、日本に思想や精神主義を浸透させた側の人、というか、それが仕事だったんだろうなとは、思うよ。あきらかにノモンハン戦争から政局や思想が変わってきている。


本投稿には、昭和十四年〜十五年にご隠居さまの母であり、自分の祖母である長谷部貴美子さんが、満州国哈爾濱、中国大同及び張家口から京都在住の母との手紙のやり取りを現代語に訳した内容を掲載しておりますが、この「note」掲載の本来の目的は、あくまで、子孫たちへファミリーヒストリーを伝えるための記録として利用させていただいております。手紙の内容は、ご本人のプライバシーを考慮して閲覧制限させていただきますことをご了承いただけますと幸いです。
書簡集(※題名は筆者が命名)

● 書簡001_令和三年(2021年)二月:喜久子(享年102歳)永眠の知らせ
⇒塩田雅子(喜久子:娘)からご隠居(貴美子:息子)への手紙
● 書簡002_令和三年(2021年)二月:叔母様(貴美子)の手紙を送ります
⇒塩田雅子からご隠居への手紙
● 書簡003_昭和十四年(1939年)十一月十六日:新天地到着のご報告
⇒長谷部貴美子(ご隠居:母)から岡村はる(ご隠居:祖母)への手紙
● 書簡004_昭和十四年(1939年)十一月二十日:大同での新生活
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡005_昭和十四年(1939年)十一月二十日:大豆の研究について
⇒長谷部輿一(ご隠居:父)から岡村素(ご隠居:祖父)への手紙
● 書簡006_昭和十五年(1940年)一月六日:新年のごあいさつ
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡007_昭和十五年(1940年)二月一日:幸せな新婚生活
⇒長谷部貴美子から伊丹喜久子(貴美子:妹)への手紙
● 書簡008_昭和十五年(1940年)五月二十七日:悲しみの訃報
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡009_昭和十五年(1940年)六月二十日:日本に帰りたい
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡010_昭和十五年(1940年)六月:里帰り出産
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡011_昭和十五年(1940年)七月:もうすぐ帰ります
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡012_昭和十五年(1940年)八月九日:帰郷中止のお知らせ
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙

● 書簡013_昭和十五年(1940年)九月一日:張家口での新生活
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡014_昭和十四年(1940年)十二月:結婚のお祝い
⇒長谷部貴美子から伊丹喜久子への手紙


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