マガジンのカバー画像

息子に紡ぐ物語

487
1男1女の子供を持つ平凡なサラリーマンと、父で作家の「長谷部さかな」は、不思議なキッカケから毎日メールをやりとりすることに。岡山県の山奥にある見渡す限りの土地や山々はどのように手…
運営しているクリエイター

#後醍醐天皇

■【より道‐63】戦乱の世に至るまでの日本史_南北朝時代への突入

■【より道‐63】戦乱の世に至るまでの日本史_南北朝時代への突入

第二次世界大戦中の足利尊氏への評価は、「正統な後継者である後醍醐天皇と対立し、光厳上皇を擁立したことは、反逆行為だ」と糾弾されていたそうです。

その思想は、明治維新のときに「王政復古の大号令」を発して、維新の志士たちの旗頭に利用されて、のちの太平洋戦争の敗戦、つまり「天皇陛下万歳」まで続くことになりました。

なので、ペリーに恫喝された江戸幕末1853年(嘉永六年)から1945年(昭和二十年)ま

もっとみる
■【より道‐62】戦乱の世に至るまでの日本史_建武新政の瓦解

■【より道‐62】戦乱の世に至るまでの日本史_建武新政の瓦解

鎌倉時代から室町時代までの歴史を学ぶと、時の権力者が人々の気持ちの移り変わりを汲み取るのことができなかったことが、ひとつの要因だったのではないかと思っています。よほど優れた聖人君子でなければ、専制政治というものは続かないのでしょう。

古代中国の伝説の聖天子・堯の逸話では、老百姓が「帝の力がなんであろう。居ても居なくてもおなじことさ」と楽しげに歌っているのを見て、堯は天下が平和に治まっている事を悟

もっとみる
■【より道‐61】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「建武新体制」

■【より道‐61】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「建武新体制」

1185年(文治元年)に鎌倉幕府が開かれて、1221年(承久三年)の「承久の乱」で北条・平氏が鎌倉と京都を統治したことで、全国的な武家政権がはじまることになりました。

それから百年の時を経て「元弘の乱」で勝利した後醍醐天皇がついに「武家」ではなく、「朝廷」が天下を治める新体制をつくりあげます。ついに、王政復古の夢が叶ったのです。

しかし、いつの世も戦をするよりも、戦後処理が何よりも重要です。「

もっとみる
■【より道‐59】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「船上山の戦」

■【より道‐59】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「船上山の戦」

こんな、ほとんどの人が注目しない戦に、ご先祖様がかかわっていたとは、思ってもみませんでした。

「家系図」にある長谷部信豊さんの隣に注記が記載されていました。

漢字ばかりの昔の人が書いた文字なので、ちゃんと読めず、誤字もあるかもしれませんが、なんとなく読める部分を解釈すると、後醍醐天皇が隠岐国を脱出したときに名和長年に呼ばれて、後醍醐天皇を守るために「船上山の戦」に参戦して討ち死にしたと読めます

もっとみる
【172日目】多様性調和家族

【172日目】多様性調和家族

ご隠居からのメール:【多様性調和家族】

日野厳島神社の当主はたしか28代目だと記憶しているが、長谷部絢光はおおよそ20代目くらいの時代の神官(ただし、下榎ではなく黒坂の長谷部氏)だと思う。

『日野郡史』に長谷部家文書が紹介されているが、その中で、大倉山において長元信に声をかけた鬼が、「おまえの先祖信連が各地に神社を建てるのでここを去る」と言ったという(当日野郡人久不住事」)。

註として、これ

もっとみる
■【より道‐55】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「元弘の乱」

■【より道‐55】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「元弘の乱」

「源平合戦」のキッカケとなった後白河方法の皇子、以仁王を平氏の追っ手から逃した長谷部信連は、伯耆日野の地に流罪となりましたが現地有力者の金持氏を頼り7年間生活をしました。

「壇之浦の戦」で平氏が滅亡し源氏の世になると源頼朝は「文治の勅許」と呼ばれる、諸国の守護職を任命する権利を得ました。

そのとき、以仁王の遺臣、長谷部信連に能登国・大屋庄を授けたそうです。つまり我々一族は、伯耆に残された一族と

もっとみる
■【より道‐54】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「倒幕の決意」

■【より道‐54】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「倒幕の決意」

鎌倉時代と室町時代は、時代として区切られてるので、全く関係ないという感覚で大人になりましたが、歴史を学んでみると、そんなことはありませんでしたね。

いつの世も、一人の人間に権力が集中して独裁政治が行われると、その国で暮らす民衆が苦しんでいるイメージがあります。鎌倉時代末期には北条氏に権力が集中して民が苦しみ、後醍醐天皇を旗頭に源氏一族のクーデターが起きたわけです。

北条氏滅亡から五百年後、「王

もっとみる
■【より道‐53】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「笠置山の戦」

■【より道‐53】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「笠置山の戦」

鎌倉幕府の権力が北条氏に権力が集中しだした頃、イタリア人の旅行家・マルコポーロが記した「東方見聞録」に「日本の民族は、肌の色が白く礼儀正しく、偶像崇拝者である。彼らは、限りなく金を所有している。しかし、大陸から離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、黄金が眠っている」このときに「黄金の国ジパング」と日本を表現してくれたそうです。

しかし、一説によるとマルコポーロ自身は日本に訪れておら

もっとみる
■【より道‐52】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「正中の変」

■【より道‐52】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「正中の変」

昔の人は血族意識が強く、血のつながっている一族のことを「氏族」と呼び勢力を広げていきました。

有名どころでは、皇族の身分を離れ臣下となった源氏や平氏。「大化の改新」の功績により恩賞を与えられた藤原氏。女帝から女官に与えられた橘氏の四氏族などが有名で、源平藤橘と呼ばれています。

いっぽう「名字」は、平安時代末期ごろから、君主から与えられた土地の地名から名乗るケースが多くなったと言われています。当

もっとみる
■【より道‐48】家系図から読み解く山名氏との血縁

■【より道‐48】家系図から読み解く山名氏との血縁

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、長谷部氏の氏祖、長谷部信連が生きた時代が舞台ですので昨年から楽しみにしていました。

心待ちにしていた第一話をみると、小栗旬さんが演じる「北条義時」が、大泉洋さんが演じる「源頼朝」に女装をさせて逃げ出すシーンからはじまりまったので思わずツッコミをいれてしまいました。

史実では、長谷部信連が以仁王を女装させて逃したのに、、と思いながらも、今回の大河ドラマでは信連は出

もっとみる
■【より道‐13】随筆_『新見太平記』(長谷部さかな)

■【より道‐13】随筆_『新見太平記』(長谷部さかな)

以前、実家に帰ったとき、父が執筆した随筆『尼子の落人』と『新見太平記』のコピーをもらった。話を聞いてみると、昔、研究した内容をまとめたもので、どちらも、郷土やご先祖さまのことを研究した書物だった。

1)まぼろしの軍記

「まあ、お上がり。お茶でも飲むかい」 荒屋敷の隠居は歓迎してくれた。たまには顔を出しておこうと思っただけだが、隠居はひまつぶしの話し相手がやってきたのを喜んでいる。

「ちょうど

もっとみる