■【より道‐55】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「元弘の乱」
「源平合戦」のキッカケとなった後白河方法の皇子、以仁王を平氏の追っ手から逃した長谷部信連は、伯耆日野の地に流罪となりましたが現地有力者の金持氏を頼り7年間生活をしました。
「壇之浦の戦」で平氏が滅亡し源氏の世になると源頼朝は「文治の勅許」と呼ばれる、諸国の守護職を任命する権利を得ました。
そのとき、以仁王の遺臣、長谷部信連に能登国・大屋庄を授けたそうです。つまり我々一族は、伯耆に残された一族ということになります。
ときが経ち、鎌倉幕末の「元弘の乱」では、隠岐を脱出した後醍醐天皇を守るために長谷部信豊が「船上山の戦」に加勢し討死したといわれていますので、つくづく「朝廷」のために命を懸けて戦った一族だったんだなと思います。
長谷部信連は、生き延びて恩賞をもらいましたが、長谷部信豊は討死したので恩賞をもらえませんでした。果たして遺族たちは報われたのでしょうか。
どこに墓があるかもわかりませんが、ただただ、子孫の自分としては感謝の思いを胸に生きるしかありません。
■ 時の流れと因果応報
楠木正成軍の長期間にわたるゲリラ作戦。後醍醐天皇の息子の護良親王率いる延暦寺の僧たちの反乱。播磨国では護良親王にリスペクトしている赤松則村の挙兵。そして、後醍醐天皇の隠岐脱出と船上山の挙兵は世の流れでした。
北条氏は自軍では対応ができなかったため、外様の足利氏に京への追討軍としての出兵を命令しますが、もしかしたら、足利一族が裏切るかもしれないと想定していました。
そこで、北条氏は、佐々木道誉に足利氏謀反の疑いがあった場合は、背後を討つように指示をだし、さらには、足利高氏の妻、赤橋登子と息子の千寿王を人質にとり鎌倉幕府内で待機させました。
それでも、この流れは止まりません。足利高氏は、鎌倉を出立し三河の地でそれぞれの領地から集まった足利一族と合流をします。そこで、祖父からの言い伝えである「天下をとれ」という遺言とともに「敵は北条なり」と一族の者たちに真意を話します。
ここでようやく源氏の世を取り戻し世を正すという大義名分を伝えたのですね。すると船上山にいる後醍醐天皇や楠木正成へ密書を送ります。
そして、三河から近江を通り京の都を目指すことにしました。近江では、佐々木道誉が3,000の兵を配備して足利軍を待ち受けていたそうですが、足利高氏は、いまから六波羅(京都の政府軍)に攻め込むと佐々木道誉に告げると、佐々木一族も足利一族と共に京へ攻め込みことを決意し六波羅を制圧しました。
一方、鎌倉攻めを任された新田義貞は、仮病を理由に新田荘(現在の群馬県太田市)へ一時帰還していると、北条氏の使者が訪れたそうです。
使者たちは、「楠木軍討伐の軍資金6万貫文を5日間で納めよ」と無理難題を申し付け、新田氏の蔵から無理やり徴収しようとしたため、新田氏は、使者を殺害しその流れで鎌倉攻めに向かったといわれています。
当初、新田一族の兵力は150人ほどでした。しかし、南下する途中、足利高氏の息子・千寿王が合流します。足利氏謀反のタイミングで、人質となっていた足利高氏の妻・赤橋登子と息子の千寿王を足利高氏の家臣である一色氏が逃がしていたのです。
そして、一色氏は、新田氏のもとへ千寿王を連れて行くと、千寿王を大将にすることで、多くの源氏一族が集まります。最終的には2万人の軍に膨れ上がったといいます。
破竹の勢いで鎌倉を目指す新田一族に立ち向かったのは、鎌倉幕府の最後の執権で赤橋塔子の兄、北条守時でした。
足利高氏は、義理の兄である北条守時の命を守るよう、一色氏に命じていたようですが、北条氏執権のたちばから、戦い続けて最後は自害したといわれています。
そして、新田軍は、稲村ケ崎の海沿いから鎌倉に攻め込むことに成功し、鎌倉は火の海となりました。得宗(北条氏嫡流)の北条高時はじめ、北条一族や家臣たちは菩提寺の東勝寺に集まり、自害したといわれています。
この瞬間、京都と鎌倉を源氏一族が制し世の中が変わりました。後醍醐天皇は、伯耆国船上山から京都御所へ向かいます。途中、楠木正成が出迎え、都入りには楠木軍が先陣をきったといわれています。
そして、尼子氏のご先祖さまである佐々木道誉は、足利高氏と共に後醍醐天皇の到着を京都の東寺で待ち受け後醍醐天皇と再会を果たしました。
そして朝廷が政治を行う建武新政権が始まったのです。建武新政権では、隠岐から漂着した後醍醐天皇を助け、「船上山の戦」で勝利をおさめた名和長年が、伯耆守護を任命され「三木一草」の一人と重用されたそうです。
この頃の長谷部氏には、長谷部信連の子孫である、能登の長(長谷部)氏、備後上下の地頭を任されていた長谷部氏。日野厳島神社の神官の長谷部氏。そして、「船上山の戦」に参戦した長谷部氏がいたのではないかなと思います。
おそらく、能登の長氏と、山陰地方にいる長谷部氏に交流はほとんどなく、備後と伯耆の長谷部氏は一族として連携を図っていたのではないかなと推察しています。
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