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息子に紡ぐ物語

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1男1女の子供を持つ平凡なサラリーマンと、父で作家の「長谷部さかな」は、不思議なキッカケから毎日メールをやりとりすることに。岡山県の山奥にある見渡す限りの土地や山々はどのように手…
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2022年2月の記事一覧

【155日目】矢野荘

【155日目】矢野荘

ご隠居からのメール:【 矢野荘】

>尼子経久、尼子晴久と当主が代わり、尼子義久の代で国人の多くが毛利軍
>に寝返っている。 

尼子経久は84歳で死んだが、それ以前の天文六年に隠居し、家督を晴久に譲った。1540年(天文九年)、晴久は安芸・郡山城の毛利元就を討つべく兵を起こした。いわゆる「郡山城合戦」だが、これが大失敗、その上、経久の容体が急変し、息をひきとった。この代替わりで、国人の多くが毛利

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【154日目】本領安堵

【154日目】本領安堵

ご隠居からのメール:【本領安堵】

長(長谷部)氏は「上月城の戦」で、毛利軍と尼子再興軍との二派に別れて戦ったのではないだろうか。元信の嫡流は当然毛利軍、支流は新見玄蕃守に従った牛之助や馬之助。長谷部元信にはたぶん本正室のほかに側室や妾数人いたと思われる。

中村整史朗『尼子経久 毛利が挑んだ中国の雄』という小説を読むと、1517年(永正十四年)に尼子経久と新見国経が出会ったことになっている。新見

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■【より道‐51】戦乱の世に至るまでの日本史_運命を分けた「承久の乱」

■【より道‐51】戦乱の世に至るまでの日本史_運命を分けた「承久の乱」

室町時代に征夷大将軍であった足利一族や、四職である山名氏、京極氏との血縁戦略をとっていたご先祖さま。

決して日本のトップではないですが、なかなか良い立ち位置にいたんじゃないかなと想像していますが、ある大戦をキッカケに衰退したことは間違いないと思います。

それは、室町幕府を終わらせるほどの大ダメージを負った「応仁の乱」です。「応仁の乱」は、登場人物や因縁関係などが複雑なので覚える気にもなりません

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【153日目】年代記

【153日目】年代記

ご隠居からのメール:【年代記】

こうして年代記を眺めてみると、長谷部氏の一族離散は宿命だね。高瀬川の上流の高瀬川をオレたちは大川と呼んでいたが、実際には小川のような細流が村を二分してくねくね蛇行しながら流れているだけなので、東側も西側もないよ。

そういえば、近江の守護には佐々木源氏の流れをくむ京極氏と六角氏があり、六角氏には高瀬城という城があった。米原氏が城主だが、わが御先祖様とは関係がないと

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【152日目】陰徳太平記

【152日目】陰徳太平記

ご隠居からのメール:【陰徳太平記】

>いまのところ、1562年に毛利氏の雲州侵攻に元信が参戦していたこ
>とまでは解っているが、その後、関ケ原までの動きで長谷部(長)
>の名を見つけることができていない。この頃に亡くなっていて月山富
>田城の戦にも参戦していないのではないだろうか。なぜなら、毛利
>の九州侵攻や秀吉の慶長の役。それこそ関ケ原に長谷部氏の名が少
>しも残っていないからだ。

その推

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【151日目】主家再興

【151日目】主家再興

ご隠居からのメール:【主家再興】

>正直、矢野庄の長氏も直系ではないと思っている。元信の息子、吉連
(良連)に子供が生まれず、家督は不続となったのだろう。

そういう場合は、養子をとればよいが、その場合、時の権力者からの承認が必要。吉連のたてた養子は毛利輝元が承認したと推察されるが、関ヶ原で負けて、防長二国に減封された西軍の総帥にはもはや力がない。

天下は徳川の世になった。

>織田信長の援助

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■【より道‐50】家系図から読み解く京極氏との血縁

■【より道‐50】家系図から読み解く京極氏との血縁

代々、我が家には、「ご先祖さまは、尼子の落人だ」という云い伝えがありまして、この家訓のようなものは、令和の現代まで語り継がれてきました。

自分も、noteに『息子へ紡ぐ物語』と題してファミリーヒストリーを記しているわけですから、これからも子孫が続く限り伝わっていくはずです。

でも、やっぱり尼子氏なんです。渋谷で街頭インタビューをしたとしても、ほとんどの人が知らない一族のことを、我が家では無理せ

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【150日目】語る資格

【150日目】語る資格

ご隠居からのメール: 【語る資格】

では、次の随筆のタイトルは、「尼子の落人」後日譚、と決めることにしよう。

「語る資格」はあるような気がする。

① 尼子再興軍に参戦した長谷部氏
② 尼子家臣として秀吉に仕えた長谷部氏
③ 母方(津弥)の先祖が尼子氏
④ 尼子の落人が長谷部氏の養子になる
⑤ 長谷部が尼子の落人という言い伝えがある
⑥ 随筆「尼子の落人」の内容が先祖自慢になっているという批判

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【149日目】なぜ「尼子の落人」か

【149日目】なぜ「尼子の落人」か

ご隠居からのメール:【なぜ「尼子の落人」か】

>毛利元就は、尼子から寝返った山名氏に人質を出すように要求して
>いたらしい。また、寝返った国人たちを戦の最前線に配置したとも
>言われているーーこれらの問題は精査、検証が必要だと思う。

「尼子の落人」執筆に際しては上下町の長秀雄さんから情報を貰っている。オレ以外にも長谷部氏の先祖に関する問い合わせが何件かあり、その都度、家紋を持ち出して対応された

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【148日目】六分一殿

【148日目】六分一殿

ご隠居からのメール:【六分一殿】

相続というのは戦争につながるほどの大きな問題なんだな

ーー応仁の乱がまさにそれだね。畠山、斯波、細川、山名などの有力大名はみんな親子喧嘩、兄弟喧嘩にまきこまれた。中世は兄弟での分割相続がふつうだったそうだが、土地には限りがあり、分割に分割を続ければ、財産は細ってしまう。

六分一殿といわれた山名氏といえども、六人の子供がいれば、三十六分の一殿になる。応仁の乱で

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■【より道‐49】六分一殿と呼ばれた山名一族の明暗

■【より道‐49】六分一殿と呼ばれた山名一族の明暗

平安時代末期に長谷部信連が伯耆国(鳥取)に流された場所、日野郡下榎から大倉山(大蔵山)を越えた隣村にご隠居の故郷、高瀬村があります。

伯耆ふくめ山陰地方は、鎌倉幕府が開かれたときから山名氏が守護職を任されていたようなので、血縁関係のある我が長谷部一族も山名氏に従属していた可能性が高いです。

しかし、不思議なことに現代の自分たちには「尼子の落人」という、家訓のような言い伝えが残っていまして、この

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【147日目】家柄の格

【147日目】家柄の格

ご隠居からのメール:【家柄の格】

その通り、姓は家柄の格をあらわしていた。少なくとも昭和二十年八月十五日までは。

日本の「家は、家業・家産・家名をもつ法人であった。今日の会社が人員の交替にかかわらず続いていくように、家は世代を超えて永続すべきものと観念されていた。家督による長子単独相続が基本であり、また、各世代の一組の夫婦が同居する直系家族世帯を理想の家族形態とした。(西谷正浩『中世は核家族だ

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【146日目】史実

【146日目】史実

ご隠居からのメール:【史実】

>新見氏が矢野庄にある小堀三間城主として、からかさ連判状に署名し
>ているということは、新見氏は、備中新見藩を離れ、長谷部氏と連携
>していたことになるね。

その通りだが、『新見市史』にはそんなことは記載がない。新見氏の一族が上下にいたという史実(?)は新見市では認識されていないのだ。では、「からかさ連判状」の連署が信用できないかというと、信用できるとオレは思う

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【145日目】からかさ連判状

【145日目】からかさ連判状

ご隠居からのメール:【からかさ連判状】

うかつながら、小堀三間城が矢野荘にあるとは知らなかった。だとすると、長(長谷部)元信が矢野荘を貰ったのは何時だろう。また。誰から貰ったのだろう。

1557年(弘治三年)の「からかさ連判状」に長元信と新見元致をふくむ備後国人十八人が連署しているのは我ながら大発見だったと自負している。長氏と新見氏とのつながりをはっきりと証明する動かぬ証拠だからだ。『新見市史

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