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【154日目】本領安堵

ご隠居からのメール:【本領安堵】

長(長谷部)氏は「上月城の戦」で、毛利軍と尼子再興軍との二派に別れて戦ったのではないだろうか。元信の嫡流は当然毛利軍、支流は新見玄蕃守に従った牛之助や馬之助。長谷部元信にはたぶん本正室のほかに側室や妾数人いたと思われる。

中村整史朗『尼子経久 毛利が挑んだ中国の雄』という小説を読むと、1517年(永正十四年)に尼子経久と新見国経が出会ったことになっている。新見国経の目的は本領安堵だったが、経久は美作に進出して所領を切り取り、自分の所領に加えるようすすめたという。

長(長谷部)元信の「からかさ連判状」連署の目的も本領安堵だろうね。

問題は、長(長谷部)元信と新見国経がいつ手を結んだかだが、まったくわからない。たかが国人同志の提携では天下取りの大勢には影響がないが、歴史の片隅に埋没してしまった事実も子孫にとっては切実な関心事だ。御先祖が「上月城の戦」まで尼子再興軍に属し、その後もひそかに「お家再興」のチャンスをうかがっていたという推理はマチガイないと思う。

>「上月城の戦」の後、矢野庄の長谷部氏が援助してくれても良いような気
>もするが、袂を分けたかな。親族よりも新見氏が助けてくれたことだね。
>そう考えると、1600年(慶長五年)の関ケ原で一家四散したというのは、
>間違っているのではないかな。それ以前の1566年(永禄九年)のタイミン
>グで、一族離散してると推測するよ。

今後はその推測の線でいこう。

六角氏の高瀬城は、米原氏だとすると、吉野村から高瀬村への地名改称にも米原氏も影響を及ぼしていると思うが、松田氏と違って、米原氏は尼子氏滅亡以後、歴史に登場してこなくなった。


返信:【Re‗本領安堵】

尼子経久、尼子晴久と当主が代わり、1561年(永禄三年)尼子義久の代で多くの国人が毛利軍に寝返っている。

調べてみると石見大森銀山に侵攻してきた毛利元就に対し、分が悪いと判断して幕府に和平工作を試みたそうだ。最前線で戦っていた国人たちは、尼子氏の後ろ盾がなくなった国人たちが孤立する事態になったのだ。

経久や晴久の代に一族が命がけで死守してきた銀山の利権を明け渡してしまい、かつ、自分たちの本領が危機になったのであれば、毛利氏に寝返るのもやむを得ない。

「からかさ連判状」に署名をした長(長谷部)元信が矢野庄を治めている頃、本領を追い出された新見氏を助けて恩を売ったのかな。この頃、新見領は尼子氏が所領しているから、新見氏は本領を取り返すために毛利氏の家臣として仕えてその機会を狙っていたのだろう。

塩冶氏も権力を維持する必要があり、反尼子勢力との結びつきを強めていったそうだよ。更に、次男・興久には山内氏の娘と結婚させ、備後北部にまで同盟勢力を拡大した。

そう考えると、1530年(享禄三年)塩谷氏の養子になった尼子興久が。父である尼子経久に反乱を起こした内部抗争の理由が重要になってくるな。


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