見出し画像

【155日目】矢野荘

ご隠居からのメール:【 矢野荘】

>尼子経久、尼子晴久と当主が代わり、尼子義久の代で国人の多くが毛利軍
>に寝返っている。 

尼子経久は84歳で死んだが、それ以前の天文六年に隠居し、家督を晴久に譲った。1540年(天文九年)、晴久は安芸・郡山城の毛利元就を討つべく兵を起こした。いわゆる「郡山城合戦」だが、これが大失敗、その上、経久の容体が急変し、息をひきとった。この代替わりで、国人の多くが毛利軍に寝返っている。その中には長(長谷部)元信や新見元致も含まれていたと思うが、証拠はない。

ところで、矢野荘をウイキペディアで調べると、「播磨はりま赤穂あこう郡に存在した東寺とうじ領荘園」と出てくるが、小堀三間城との関連史料は出てこない。備後の小堀三間城が矢野荘にあったことを示す史料があれば、教えてくれ。

>からかさ連判状に署名をした元信は矢野庄を治めている頃、本領を追い出
>された新見氏へ恩を売ったのだろう。この頃、新見領は尼子氏が所領して
>おり、新見氏は本領を取り返したかったのだろうな。

本領を追い出されたのは新見氏の一部だと思う。残りは備中東寺領の代官や細川氏の代官として地元でがんばっていた。長(長谷部)元信から矢野荘をまかせるという申し入れがあったとすれば、渡りに舟だ。そこで新見氏に恩をうったので、孫の牛之助が面倒を見てもらったのではないかというのがオレの推理だ。


返信:【Re_矢野荘】

かなりマニアックなサイトだが「上下町ご当地問題」のなかに小堀三間城についても問題がある。そこには、上下町小堀に新見氏の菩提寺である長福寺があると記載されていた。これを見て、小堀三間城が矢野荘にあったことがわかったよ。

備中東寺領を治めていた新見氏の先祖の墓が長谷部氏が治める矢野荘にあったということだよね。不思議な話だ。

戦国期の「一族」とはどの程度のことを指すのであろう。現代で表現すると、広島のおじさんが長谷部家の当主とすると、その子供はもちろん一族で、ご隠居、自分、息子も一族に含まれるか。

すると、既に離れ離れになっているので、わが家は支流となるわけだよね。

しかし、勝治郎さんとツネさんは、男児を4人も産んでいるのに長谷部を名乗る一族は、二派しか残っていない。

もし、これが戦国期なら、菊二さん、亀三さん、貢さんも長谷部氏を名乗り一族となったのだろうか。もしくは、政略婚で養子となり、名を変えて一族になったのかな。

一族は一族たちに領地を分け与えていたはずだよね。長谷部氏が矢野荘を治めていたということは、矢野荘のなかで、領地を分け与えて、そのひとつを新見氏に与えていたことになるのかな。やはり、新見氏と長谷部氏は繋がっていそうだね。

【問題】
小堀三間城の城主であった新見氏の菩提寺として建立された長福寺(上下町小堀)には、歴代の住職の墓塔である無縫塔が 12基ある。

【正解】
○(マル):無縫塔の中には「天正八年」、「当山中興開山」、「暹用和尚」と記名のある小米石製の塔があり、県内でも珍しい貴重な遺品とされる。

*参考資料「上下町ご当地検定問題集」


<<<次回のメール【156日目】一歩前進

前回のメール【154日目】本領安堵>>>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?