息子の作文

父の銀蔵は息子の部屋から、ぶつぶつと呪文のように唱える声で目が覚めた。その声があまりにも暗かったので、トイレに行くついでに部屋に入り注意した。
「おい、何時だと思ってるんだ。」
息子は驚いたように身体を揺らしたが、こちらに振り向きもせずに、
「…ごめんなさい」
の一言だけ返すと、そのまま逃げるように寝床へと潜り込んでいった。
銀蔵もトイレが近かったので、そのまま息子の部屋から立ち去った。
用を足していると、寝ている時は気にしなかった頭痛が再び襲ってきた。昨日は飲みすぎたらしい。飲みすぎて、記憶が無い。銀蔵は飲みすぎた時の記憶がない。飲みすぎると、感情がコントロールできなくなって、カッとなって、当たり散らすことがよくある。記憶がなくなっても、それだけはなんとなく覚えている。
その証拠に、右手がじんわりと痛い。また何かにぶつけたのかもしれない。さらに自分の身に着けている服をみると、ワイシャツがはだけている。もちろん銀蔵は寝るときはいつも寝巻に着替えるので、会社での飲み会か、あるいは家に帰ってきてそのままたくさん酒を飲んで、そのまま眠ってしまったらしい。トイレにかけられた時計を見ると、午前3時を回っていた。銀蔵は、またやってしまった、といった感覚に陥ってしまった。
小便を済ませてトイレから出ようとすると、また息子の部屋からぶつぶつと声が聞こえてきた。息子の和夫は高校生になってから夜更かしが増えた。明日も学校のはずなのに、こんな時間まで何をしているのか。叱ろうと思ったが、息子の声がさっきよりはっきり聞こえてくるので、銀蔵は聞き耳を立てていた。
「私の父は、素晴らしい父親でした。幼いころに亡くした母の代わりに、男手一つで私を育て上げました。生前、父親の言葉に『後悔が無いように生きろ』と私に言って聞かせてくれました。私はこの先も父の言葉を胸に、また父に恥じぬよう、生きていくつもりです。」
聞いているうちに銀蔵は目頭が熱くなった。妻を亡くしてから、和夫を育てていくには大変苦労した。家事は全部妻に任せていたから、料理を作ったり洗濯をしたり、やりたくないことばかりやっていた。ちょうどその頃は会社でミスをして降格されたり、うまくいってないものだったから、息子に当たり散らすこともあった。和夫にもかなり迷惑をかけてしまった。
しかしどうだ、息子はこんなにも父を愛してくれていたのだ。銀蔵はトイレから飛び出すと、息子を抱きしめたくなった。息子の部屋を開けると、和夫はまた慌てて読むのをやめた。
「和夫!」
「と、父さん…」
「いや、違う、叱りにきたんじゃないんだ。お前が俺のことをそんな風に愛してくれていただなんて思わなかったんだ。」
「あ、うん……」
「それは、何の作文なんだ。」
恥ずかしいのか、ずっと布団から出ないで和夫は話している。
「いや、ちょっと…」
「分かった。学校で読み上げるものだろう。お父さんの感謝の言葉を作文にして発表するのか。それで練習していたのか。」
「まあ…」
和夫はまだ恥ずかしそうにしている。
「しかし、明日は平日だろう。授業参観があるなんて聞いていない。それに、残念ながら父さんも明日は仕事だ。お前の作文を聞くことができない。」
「うん…」
もうひとつ、銀蔵には気になることがあった。
「それと、さっき『生前』って言っていたが、あれはどういう意味だ?」
息子は押し黙ってしまった。
銀蔵は見ての通り健康体だ。しかし、なにぶん扉越しに聞いた声だ。自分も寝ぼけていて、何か聞き間違えたのかもしれない。
「まあ、遅くなりすぎないようにしろよ。」
そう言って部屋から立ち去ろうとすると、息子の声が返ってきた。
「近いうちに大勢の人の前で読むんだ。だから練習していたんだ。」

(了)


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