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【哲学】他人のことを馬鹿にする人間は、自分のことを馬鹿にしておるのと同じで

他人のことを見下した

他人のことを馬鹿にした

なぜだろう。それは、ある意味では自分のことを卑下していることと同義であるのに。

本当の「他人」というものは、つまりは、あなたが興味を持っていない人物だということだ。それは真の意味の「他人」なのである。

馬鹿にするということは、それは「真の他人」ではない。あなた自身の中で構築された、「あなた」という色眼鏡で捉えられた「他人」なのである。これは、真の意味の他人ではないということは、火を見るよりも明らかである。

あなたの中の「他人」を馬鹿にするということは、他人の中に、自分が嫌だと感じる部分を見いだし、それを嫌悪しただけではないだろうか。自分に全く関係は無いが、とにかく嫌悪感を覚えるのではなく、自分にもその部分を共通しているような部分があるからこそ、「他人(自分)」に違和感や嫌悪感を抱くのではないだろうか。

他人を馬鹿にしたことが無いという人は、むしろ少ないと思われる。何故かというと、真の意味での「他人」は、そもそも「興味」「嫌悪」のような感情を抱かせることはないからだ。

興味(あらゆる意味の)を抱くということは、他人を自分の中に見出すことである。馬鹿にしたり、興味を持ったり、激怒したり、そうした時点で、もうその「真の他人」は、ただの他人なのではなく、あなたの中の「他人」、言ってしまえば、「あなた」自身に近い存在のようなものだろう。

そうだ。

こんな言葉を聞いたことがあるだろうか。「類は友を呼ぶ」「birds of a feather flock together」或いは、「自分の周りの人物の平均があなた自身である」

これが意味することは、自分の周りにいる他人は、(もちろん)全くの他人というわけではなくて、少しづつ「あなた」の要素を持ち合わせているということではないだろうか。

落ち着いたり、共感したり、笑顔になったり、バカにしたり、嫌いになったり。そういったことがあるのは、身の回りの人物が、「他人」であるからではなくて、それがある意味で「あなた」自身であるからではないだろうか。

「あなた」は、「あなた」自身の要素によって、怒り、涙し、喜び、安堵する。つまり、他人のことを馬鹿にする人間は、自分のことを馬鹿にしておるのと同じなのである。

馬鹿にするのは、それがどこか自分事のように思えてしまうからである。嬉しいのは、自分が嬉しいと思っていると感じるからである。「他人」には、自分とは異なる要素を求めている人も、たしかにいることだろう。

しかし、「あなた」が、他人に出会った時に、嬉しさや安心感を覚えるのは、それは「その子」であったからでは無くて、むしろ(意外に)「あなた」自身に出会ったからではないだろうかと私は考える。

結局人間は、「あなた」と言いながらも、自分と似ている、あるいは自分自身を他者に求めているのかもしれないですね・・・。



今日も大学生は惟っている。


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