箱か中身か

あぁ。そうなんだ。

(え。でもそこからなんか聞きづらいな・・・)

大学生と、大学の講義の話をする時にいつも、かく頭に浮かんでくる。

それ以上聞きづらいというか、相手側がどもってしまう場合どうすればいいか分からないというか、空気を壊さないためのものとしてのコミュニケーションを円滑に進めようと表面的な会話に徹するべきなのだろうとわざとアッサイ会話をする自分がいる。

中身の話をしない。

ポテトチップスは、のり塩がいいとか、みかん味がいいとか、関西風味がいいとか、そういう会話をするけれど、大学の講義をするとなると、果たしてなかなかそうはいかないの。う~n。

どうしてだろう。二の足を踏む自分を、客観的に見る自分が、疑問を抱いて、やっぱりどうしようもねぇなって、会話の綿密なエンコードどディコードを諦める己。(n回目)

大学生の大半が、肩書だけにしか興味がないからだろうか。割とこれは、あっているかもしれない。「えぁ、講義大変だよね・・・(笑)」という口上が垂れ流されるだけで、その講義の内容を詳しく聞いたり、講義内容について一緒に考えようとはとうてい思わないし、許されない。

まぁ、突然そのような会話をしようとした人は、自然には見えないし、コードから逸脱しているので、キモイ。きも~い。「少なくともここは、単位や成績が関わっている場所ではなぇから、手を掛けさせんじゃなぇよ! コーンポタージュ五リットル一気に大筒で飲ませんぞ!」と思われたら怖いので、講義の内容には踏み込まない。(あぁ摩擦回避世代。摩擦回避世代。以下略)

どこかで、それに肯んじているワタシがいる。大学はやっぱり、キャリア教育の場所で、労働者を作る場所で、就職予備校で、平均評価を最大化する場所で、金を払って「行く」場所で、思い出作りをする場所で、モラトリアムで、遊ぶところなんだなと。

大学は、ただの箱でしかなく、多くの人間もまた中身ではなく、箱(肩書)が欲しいということ。その中身に触れようとすると、なぜかそれを億劫に感じる誰かがいて、キモイと思う奴がいて、テスト期間だけにしとけって思う輩がいて、まるで腫れもの扱いのよう。(えぇ? 風船も刺しようによっては破れないんですけどね・・・)

まぁ、中身の話をする人間もいるにはいるので、それが唯一の救いなのですけれど。でも、大学はやっぱり、「箱」になってしまったんだろうな。繰り返して繰り返して、空疎な記号になってしまったんだろうな。そこで、特に考えもせずに、虚無に、ナンセンスに殺されそうになる恐怖を抱く事もなく、流れていく。(水の流れではなく、その水が如何様なものなのかを見ていないような)

あぁ、軍靴の音が鳴り響く。




今日も大学生は惟っている。


参考文献

田中泰延.2019.読みたいことを、書けばいい。 : 人生が変わるシンプルな文章術 .ダイヤモンド社


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