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役に立つ本ってなに?

役に立つ、という本。役に立つ本を読むな? 役に立つ本だけを読むな? どっちだったかは忘れてしまったが、そういうタイトルのやつを見かけたような気がする。

役に立つ本とはなんだろう。それが金を発生させるのか。それが精神を落ち着かせることになるのか。それが大切な人を救うことになるのか。海外旅行に役立つのか。睡眠について良質な知識を提供してくれるのか。まぁ色々あるだろう。

そのような分類わけがあるのは知っている。役に立つ本。そうでない本。しかしどうしてそのような分類が存在するのかが気になった。役に立つ本、そうでない本が良いか悪いかではなく、どうして役に立つか否かという一つの基準で分けられているのかということが気になってしまった。

そうだな。役に立つ本を読むなとか、役に立つ本だけを読むなという考えには、役に立たない本というものが存在しているということを暗に示しているということだろうか。ならその基準はやはり何なのだろうか。というかそもそも、「本」というものは、「役に立つ」ものなのだろうか。そのような基準で分類されるものなのだろうか?

まず一つこの、役に立つか否かという基準の背景として考えられるのが、サプリメント的な本が増えたことかなと思っている。いわゆる自己啓発書とか、ビジネス書の類だろうか。実際に行動するかどうかは別として、その考えがあれば!みたいな本が、そのような内容を売りにする、有名人のスター性という虎の威を借りる狐のような本が、ちょっと多いと感じていることも関係していると勝手に思っている。

先ほども書いたのだが、そもそも「本」は役に立つものなのかということだ。もちろん、古典だったり、今も読み継がれているものは、「役に立つ」のかもしれない。人生を生きることにおいてね。でも、それが本の全てなのかと言われればそうでは無い気がする。

そもそも本は、ある記録を残しておくために作られたもの(だろう)。では何故その本を残しておくのかと言われれば、それが役に立つからということになってしまう。だったらやはり本というのは、役に立つということが究極の目的なのだろうか。確かに、焚書坑儒が起こった時も、医学や、占い、農業に関連する書物は残されていた。それはおそらく役に立つからだったのだろうね。

となれば、もう少し考え方を変える必要がある。役に立つか否かという二項対立的思考ではなく、結局は役に立つということが本において優先されるのであれば、その「役に立つ」ということにおいて、何か違いがあるのではないかと考えた方が、より自分の考えを羈束せずに、進めることが出来ると思います!

ということで、続きは別の記事で。




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