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私の遅さに着いて来れるかな

私はとてつもなく鈍間。

回りが夢だの、就活だの、インターンシップだの、サークルだの、副業だの、スキルだの言っている間に、私はどんどん君たちの視界から外れていく。

なんてったって、私はどうしてか、「哲学」に憑りつかれてしまったのだから。そこで、私はもう、あるレールからは外れてしまったのかもしれない。

生産性?市場での優位性?勝ち組?将来?夢?なにそれ。大層美味なんでしょうね。

誰も、私の遅さに着いて来れはしない。

私は、「無駄な学び」という遠回りをすることにした。「哲学」という無駄だと思われがちな、全く快くもない、快感もへったくれもないかもしれないもの。だが、この遠回りは、今しか出来ないと私は思ったのだ。

千葉雅也さんの著書『勉強の哲学 来たるべきバカのために』という著書に、こんな言葉がある。

深くは勉強しないというのは、周りに合わせて動く生き方です。状況にうまく「乗れる」、つまり、ノリのいい生き方です。それは、周りに対して共感的な生き方であるとも言える。逆に、「深く」勉強することは、流れのなかで、立ち止まることであり、それは言ってみれば、「ノリが悪くなる」ことなのです。(千葉雅也、2017、12)

このnoteという媒体、ましてや大学というコミュニティの中で、私は千葉雅也さんの文言を借りれば、「ノリが悪い」のかもしれない。それに、noteで書く内容は、暗いと捉えられる内容ばかり。哲学を勉強し、その残酷さようなものを感じているということばかりを書いている。

私は、亀みたいに遅いか、或いは立ち止まってすらいる。流されてしまいそうなことに敏感になって、「それってどういうことだぁ!?」と、突き詰めている。確かに、「ノリが悪い」のかもしれない。

でも、これが私の、「勉強」だ。

このnoteという「ノリ」からは私は逸脱しているかもれない。「なんかよく分かんないけど・・・深いですね・・・」って思っておけばいいやと思われる内容を書いている。不気味で、キモくて、もしかすれば恐ろしくて、大学生とは思えない、その「キモさ」を発揮しているのかもしれない。



「哲学」?

「それやって、なんか意味あんの?」

おそらく、大抵の大学生、いやほとんどの人間は、そう思うかもしれない。

だから、きっと彼らは私の「遅さ」「キモさ」「ノリの悪さ」に着いてこれない。そのはずだから。



今日も大学生は惟っている。



引用文献

千葉雅也.2017.勉強の哲学 来たるべきバカのために.文藝春秋



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