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観光の想起における、例の”扉”

近くのショッピングモールへ、冷たい雨足の中で脚を動かしていく。コロナ禍だからなのか、夜だからのか、そもそも住んでいる所が過疎っているのかは分からないが、やたらと人が少ないなと。世界人口が乗数的に増えているという危機なんて、実はただのメディアが造り上げた嘘なんじゃなかろうかと言ってみる。

不図頭に降りてきたことだ。観光には、いや正確にはその観光を思い出す時というか、想起する時というか、そこには多分、あの扉がある気がする。どんな扉かって?

その扉の前に、色々書いておこう。

観光は、どこにあるのか?なんて記事を最近書いたけど、多分それも関係している。観光ってのは、多分思い出すことが大事だったり、残すことが大事だったりすると思うんよ。ネルヴァルも東方紀行を残したからねわざわざ。(いつも通りの、ワタシの独特?の世界観(文章観?)を繰り広げてきますよ。)つまりは、観光は、「行く」だけではなくて、その後に何をするかってことが、なんならそっちの方が大事だったりするのかもしれない。

観光に行くときには、写真を残すことが多いのかもしれないのが、その証左だろう。(大学の講義で学んだから、おそらく合ってる!でも反証可能性がないわけではない!)てことは、これも前に書いたことがあることかもしれないけれど、観光っていうのは、自分以外の人間の存在がめちゃくちゃ重要。これは極端だけど、もしあなたが観光の思い出を語るような他の人間がこの世に居ないとしたら、観光というものに、積極的に興じようとは思わない気がするのね。

その思い出す時というのが、今回のメインテーマ。思い出すということは、つまりは思い出を再構築するということで、その体験をそのまま持ってくることではないと思うの。その意味では、思い出とか、記録とかそういうものは、よほど細かく書かない限りは、大分「カット」されて思い出されるものではないのかな。

忘れることが出来る。中にはそういうのがムズカシイ人もいるけど。思い出すということには、忘れたり、そもそも覚えていなかったり、敢えて思い出そうとしなかったりと、色々剥がれて行って、出てくる。それは、体験そのものに比べれば、憔悴し、草臥れた雑草の様というのは言い過ぎかもしれないが、まか大分ことなるってことやね。

観光に行こうが、いつまでもその時間が続くわけじゃない。その「無」を意識するからこそ、「有」を残そうとする。そしたら、そこには、あの”扉”があるのと一緒じゃないか?

何故か愛嬌の感じられるガラガラ声で、再生余裕

ど こ‟ で も‟ ド ア‟~‷ である。何を隠そう、ど こ‟ で も‟ ド ア‟~‷である。観光には、それが終了した後も、もしくは観光中にも、この扉がつきまとってくると惟うの。

思い出すのは、大体はどこの路線の電車を使ったとか、どの飛行機を使ったかとか、どんな道を、どんな風を、どんな匂いや不快感を歩いている時に感じたかということではなく、むしろ「どこに行ったか」が中心になっているのだと思う。いや正確に言えば、「どこに”到着”して、そして楽しんだか」に近いだろう。

過程ではなく、目的。

道ではなく、観光地・ホテル・宿泊施設。

舞浜に着くまでの駅駅ではなく、ディズニーランド。といったところか。

それって結局、秘密の道具の「どこでもドア」使ったのと実質変わらないのではないか。もちろん全部が全部そうでないけれど、目的地しか思い出せない、思い出すことが出来ない、思い出されないのであれば、観光客はほぼドラえもんか、彼に頼るのび太一味みたいだね。

そういえば、ドラえもん映画の、ドラえもんとのび太が「どこでもドア」を使って、南極とか知らない土地に行くシーンを見る時に、「観光」「旅行」と同じような感覚というか、そんな印象を覚えるのは・・・何故だろう?ワタシだけなのかな。

そんなことを書いて、なんだか観光って(特に大衆が観光に興じるようになってからは)どこでもドアを使っていることと実質変わらないところがあるのではないかなんて、持論繰り広げてみるが、まぁただの空想だ。




今日も大学生は惟っている



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前書いた「どこでもドア」の記事(ピンポイントすぎん?)


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