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情報化する観光

久の観光に関する記事です。いつも「久し」と言っていて、頻度は鬼低いですが、まぁとりあえず今日もつらつら書いていきましょう。


情報化◯◯。情報化云々。そういう割に、情報化そのものの意味をよく案ずることを避けてきました。ただ何となく使われているから、その内実など、どうでもいいように思えたんです。しかし今、その「情報化」という言葉と、「情報化」という言葉から見た観光(tourism through information)について、色々書いていこうと思います。

まず、「情報化」という言葉についてですけれども、端的に言えばワタシは「同一化」「不変化」「人間事化」ではないかと思います。保存できるようにするためには、なるべく状態が変わってはいけない。水を水として保存しておくためには、気体や固体に変化させることなく、液体として保つために努力しなければならない。肉のもちを良くするために、東南アジアの香辛料を用いることも、もしかしすれば、一種の「情報化」かもしれません。

観光とは、情報にあふれたものでしょう。「情報化する観光」という文言は実は不適切かもしれなく、観光そのものが情報化の産物であると考えた方がいいかもしれなません。例えば歌枕として有名になった場所に、多くの人が訪れます。(能因法師とか分かり易い例かもしれません。)歌枕という変化しない情報を介して、ある場所を訪れることは観光或いは旅行であり、少なくとも”旅”ではないでしょう。SNSで有名になった場所を訪れるという行動もまた、歌枕の例とは特に差は見られないとは思います。

この間ちょこっと、宿泊施設を運営する方々とお話する機会を得て、そんなに多くの事を書くことは出来ませんが、(大きな主語で一括りにしてしまいますが)日本人はどうもサービスというものを過剰に求めるというか、高いサービスが提供されて当然と思われる方が多いのではないかとという意見を耳にしました。弊害というわけではないですけれども、これも一種の、情報化の影響なのではないでしょうか。消費者、観光者は基本的に、ネットを介して、観光地や観光施設、宿泊施設に関する情報を得ようとします。(「観光地そのもの→情報」ではなく、「情報→観光地そのもの」という風に認識の流れが逆になっているのでしょう。)それらは、すべて情報です。固定化され、編集された、ある意味で非常に偏屈なものとも言えます。

観光は、そういう”情報風景”とでもいいましょうか、情報との同一化がいたく求められるものかと思います。「は? なんかイメージと違うんだけど。」と、観光を行った人々は思われた経験があるかもしれませんけれども、それは全く不可思議な事ではございません。ネット上の情報と、現実の情報が必ず同じになるなんて、そんなオカシナことが常に起こるわけがないじゃないですかと。一つの情報を基に構築した個人のイメージなど、ひどく頼りないものです。この意味で、「情報」とは、現実そのものを表すというわけではありません。

以前、2020年の6月くらいにですね、「副現実+観光(2.5次元的観光)」という記事を書いたことがありましてね。珍しく、「虐殺器官」という小説を繙いて時にみつけた一節から、少し観光のことについて書いたんです。その時に、わざわざタイトルほどの大きな文字を使って、こんなことを打ちこんだんです。

観光対象も、もしかしれば、その全体の雰囲気ではなく、分人のように、個々の情報によって捉えれる単なる副現実内の情報の集合体と化している。
個々の情報を、全体の、全体として成り立つ趣、風情、色に換言し、還元することを人間は忘れてゆくのではないか。

(原文が誤字ってますが、そのままにします!)

「副現実」というのは、そうですね、最近ちょっと面白いなと感じるものを見つけたんです。「Physna」という検索エンジンらしいのですが、現実世界を検索対象にするようで、これを見た瞬間、ちょっと哀しい気持ちになりました。なぜなら、「Physna」は、「虐殺器官」に登場する検索システムというか、情報補完装置といいますか、ともかくも「オルタナ」に似ていたからです。どこか施設に目を向けると、情報が表示される。人間は、現実世界そのものを見るのではなくて、情報を、或いは情報を被せた世界を見るようになる。ただでさえ、情報に支配されている世界なのに、これ以上現実世界を情報で侵食して、人間の行動や思想を統制しようとでも考えているのかと、思ってしまいました。

とはいいますが、二項対立にはまるのもいかがなものか。つまり何が言いたいのかと言うと、既に現在において、人間は現実世界そのものを見ているのではなく、情報を目にし、消費していることも忘れてはならないということです。「オルタナ(副現実)」や「三次元オブジェクト検索エンジンPhysna」が無いからといって、人間が今、現実世界そのものをその目で捉えているとはならないでしょう。観光という現象は、それをよ~く観察できる機会とも言えますね。

しかしまた、別の二項対立にはまっていることに、アナタは気づいていますか? つまり、現実世界があるという考えの危うさです。何が現実で、何が現実でないのか。何が情報で、何が情報でないのか。その境界線を明確に設け、判断していくというのは、簡単なことではありません。少なくとも、何が現実か分からなくなっているというのは、わりかし的を射ているかもしれませんがね。

自然を体験しようという観光。グリーンツーリズムやアグリツーリズムでしょうか。これは、現実世界を体験しようとしている観光の一つかもしれません。現実世界とはつまり、ワタシが考えるのは、「偶然性」です。何が起こるか分からない。情報と異なることが起こる。先ほど、観光は情報化の産物であると書きましたが、それも怪しくなってきました。情報化そのものでもあり、しかし偶然性や自然や、言語外の何かに触れる機会を与えてくれるもの。観光とは、非常に分野の広いものですから、断定という断定が簡単ではありませんけれども・・・笑。ただ一つ言える事は、現実世界が過剰に情報化しているということであり、観光がその状況で発展してきたということも否定できないことであり、しかしまた情報化に抗うような動きもまた見受けられるということではないでしょうか。

まだまだ分からないことだらけの高校生に毛が生えたような青二才ですが、学部生の間くらいは、観光について色々していこうと思います。では





今日も大学生は惟っている




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