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自己決定性とパブリックへの回路というトレードオフ的な関係と、個人と共同体の強固な関係についt

社会学の本を読む返すことが多くなる今日日(自己語り乙)、興味深い文章と考えを見つけたので、紹介したいと思う。

まず当該箇所を引用する。

自己決定性をキーワードとして理解可能な社会現象は, 近年このように広範囲に広がっている。しかし「他者の権利を侵害しないかぎりにおいては, 自己の自由を認めうる」などと, 自己決定性に一定の制限を加えなければ, 社会的混乱が生じ「社会秩序」は維持しがたいだろう。では, 他者の権利を侵害する場合以外に, 自己決定性に一定の制限を加えることは, どのような場合にどのような根拠で正当化されうるのだろうか。(浜日出夫、2007、90)

「他人に害を与えない限りで、個人の自由を認める」。まさに民主主義の基本的な原則と言えよう。

この引用文が、しかしいわんとしていることは、「そうは云うものの、容認した自由さえも、既に制限付きの自由さえも、社会的混乱につながる恐れがある」ということだ。常常、社会と個人は対立するものだなと感じさせられる・・・。

では、既に制限付きの自由(他人を害さなければOK)が、社会的混乱を生じさせる具体例として、どんなものが思いつくだろう。その実、厖大な例が挙げられるかもしれない。

今私が思いつくものとしては、「遊んでばかりの大学生」である。おそらくだけれどね!彼らは、意図的に誰かを傷つけようとしたり、自由を奪おうとしているばかりではない。ただ遊んでいるだけ、ただ学問研究しないだけなのだよね、それだけ。ではもし、大学生が全員が全員、大学を卒業証書発行機関としてしか捉えず、遊ぶことばかりに耽けるとしら、どうなるだろう。あなたは一体どのような状況が待ち構えていると考え及ぶだろうか?

この場合毎年、ある意味で、遊ぶことだけしかしない集団を産み出すということを容認しているようなものだと私は思う。大学はただでさえ無駄と言える機関。その無駄な期間の有難みも知らずに、ただ乱痴気騒ぎやっているとなれば、しかも毎年そのような輩が再生産されているとなれば、社会的混乱を招きかねないのではないだろうか。

これは例えば、コロナ禍の影響でついこの間まで休校を行い、それに伴って休んでいた小中高生にも言える。保護者の方が、子どもを心配して休校解除の後も、学校に通わせまいとする。アメリカのようにホームスクールなるものがなかなか容認されていない日本において、もし多くの親が子供を通わせないという選択をしたとするならば、それは直接的な被害を被らせているわけではないが、諸所の社会的混乱を招くことになるかもしれないね。


では、そのような「他人を害さない限りにおいて、自己の自由を容認する」という制限付きの自由に対してさらに制限が加えられるという行為に対して、何がその正当性を保証するのか。それにあたる文章を同頁から引用する。

「社会的利益」, という成員に共通の利益を持ちだす立場がある。〔中略〕しかしサブカルチュア化など社会の細分化・断片化が進み, 社会的利益そのものが脱神話化され, 共通の利益の存在は幻想であり, さまざまな少数者を事実上排除しているという見方が広まっていくにつれて, 全体的な社会的な利益や公益は, その存在・観念自体が疑われだし, 市民自身にとってますます不可視なものになりつつある。(浜日出夫、2007、90)

既に制限されている自由をさらに制限する時には、社会的利益がキーワードになる。いわゆる「公共の福祉」というやつだろうか。知らんけど。そもそも私には、「社会的利益」というもの具体的な像が思い浮かびにくい。持続可能性も社会的利益と考えられるだろうか・・・。

人間をオルソンの言うように、「フリーライダー」的存在、つまり労力を要さずとして公的な利益にあずかろうとする性質を持つものと考えれば、この社会的利益は虚偽妄言に過ぎないだろう。アダムスミスの言うような競争原理が、社会全体を一貫して存在している法則であることは絶対にありえない。拮抗する個人と社会を、見逃すことが出来ない。

とまあこのように、社会そのものと個人個人は、必ずしも安定的・絶対的な協力関係に留まることが難しいどころか、むしろその反対の状況の方が、民主主義においても生じる恐れがあり、社会全体を益するためには、個人に自由は無際限に制限される蓋然性もあるということをつらつらと紹介してきた。

「自己決定性とパブリックへの回路」。これは互いにトレードオフの関係にあると言ってもよいだろう。しかし興味深い事に、個人と社会という集団の利益のこのような関係に対して、互いの存在の基底はトレードオフ的関係ではないのだ。

「お互いどうしから人を切り離そうとするラディカルな個人主義は, 実は強い個人主義ではなく弱い個人主義を産み出す。‥‥‥個人と共同体はどちらかが強くなれば, 他方が弱くなるようなゼロサム状況にあるものではない。むしろ, ある種の強い個人主義を支えるには, ある種の強い共同体が必要である」。R.N.ベラーはこのように述べ, 過度の個人主義が, 個人主義や自由の基盤を掘り崩しかねないことを警告し, 「個人と共同体が相互に支え合い強化しあうような」「社会に根を下ろした倫理的個人主義」の意義を主張している〔中略〕(浜日出夫、2007、90)

個人の利益と、社会の利益の対立という在り方とは反して、個人の在り方そのものが強くなれば、共同体の力が弱くなる、或いは共同のつながりが強まれば、それに応じて個人が弱くなるというトレードオフの関係にないという点が、先ほども書いた通り、興味深いと思われる。

しかしここで様々な疑問が浮かんでくる。

なぜトレードオフ的な関係が、利益と主義でそれぞれ異なるのか。

強い個人が強い共同体に支えられているということは、具体的にどのようなことか。

共同体が強くなれば、必然的に強い個人主義も生まれるのか。

などなどである。

この引用文で、まともな理解が可能なのは、

「過度の個人主義が, 個人主義や自由の基盤を掘り崩しかねないことを警告し, 「個人と共同体が相互に支え合い強化しあうような」「社会に根を下ろした倫理的個人主義」の意義を主張」

という部分であり、「アノミー」という言葉で表現できるものだろう。極度に個人主義を進めすぎると、かつて所属していた集団との様々な面でのつながりを失い、さらには、その集団さえもが崩壊していく。社会としてはあるまじきことであろう。

個人というものが自立していられるのは、個人ばかりが存在しているからではなく、異なる性質を持つ「共同体」という存在があるからである。個人の根本は、共同体からということだろうか。それならば、なおさら個人は共同体の上に立脚していなければならないね。個人が自立していることが出来るのも、社会という共同体との対比としての「個人」がいる、という認識があってこそ、共同体に根を下ろさずに、個人はそもそも生まれないのかもしれない。

比企谷八幡がぼっちでいるのも、ぼっちではない人間が徒党を組んでいるという状況があるからだろうね。

互いが互いに存在していなければ、どちらの利益が云々という問題もそもそも生じない。トレードオフ的な関係は、非トレードオフ的関係に基づいているというなのかもしれない。これは資本主義的な労働は、非資本主義的な、つまり非有償労働(無償労働)が無ければ成り立たないことと、何となく似ている気がするよ~な・・・。

うァらん。


ムズカシイね・・・。疑問も残っちゃたし。





今日も大学生は惟っている。


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引用文献

長谷川公一、浜日出夫、藤村正之、町村敬志.(2007).社会学.有斐閣








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