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万引きとテラフォーミング

「万引き家族」という映画がある。その映画の内容そのものよりも、その映画において、「万引き」に関わるやり取りというか、それに関わる考えに、どうも興味が湧くというか、頭から何故か離れない。

祥太は、治に連れられて万引きを繰り返します。子どもながらに「万引き」は悪いことではないのかと疑問を持つ祥太に治は、「店に置いてあるものは、まだ誰のものでもない」という独自の理論で万引きを肯定するのです。(樺沢紫苑、2020、387)

ここで疑問に思うことは、「誰のものでもない」というが、「勝手に盗ってもいいことになるのか」ということだ。これは、広い物事に関わってくること田でもあるし、非常に難しい物でもある。

「誰のものでもない」ということに対して、考えられる背景は二つ。それは、なにがしかの法や規律がある場合と、そうでない場合である。前者の場合、「誰のものでもない」というのは、想定された事態である。しかしながら、後者の場合の「誰のものでもない」という事態は、全くの「無」に近い。

「誰のものでもない」ものを「奪う」とは言えない。「奪う」という行為は、誰かの物があるということが前提となる。けど、何かが納得がゆかない。「誰のものでもない」ということによって、「勝手に所有する」ことは容認されるのか。

例えば、動物を殺して、その肉を喰らうことは、「勝手に所有する」ことになるだろうか。しかしこう色々書いてるうちに、そんなことを言われたら、何もできないのではないかと、違う自分が反論してくる。

例えば、「テラフォーミング」というものがある。他の星を、地球人が住むことに出来るように、環境を変えることである。英語表記にすると、「terraforming」。「terra」は、「大地」という意味であり、文字通り「地球の環境そのものに変えること」、「地球化」である。

テラフォーミングは、はたして違法であるか。まさか、法なんて存在しないのだから、奪ったって、所有したって、全く問題ではないかもしれない。テラフォーミングは、果たして「万引き」なのか。法の外である存在には、あらゆる行動は容認されうるのだろうか。

宇宙に、道徳や倫理観なんて必要ないのだろうな。人間の生存には、道徳や倫理観なんて必要ないのだろうな。法は全知全能ではない。都合の良い様に改変することなど、いくらでもできる。道徳や倫理観なんてもんも、その域を出ることは無い。

何を言いたいのかも、何を考えたいのかも、よく分からなくなってしまった。物事其のものに、究極的に、善や悪の判断なんて意味がないのにね。生きること以上に、優先されることなど、おそらくほぼ何も無いのだろうね。自分が生きていれば、それでいいものね。知らんけど。




今日も大学生は惟っている。


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引用文献

樺沢紫苑.2020.父滅の刃 消えた父親はどこへ アニメ・映画の心理分析.みらいパブリッシング

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