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「苦手な食べ物」はありますか?いや、「特に好き嫌いはありませんが・・・」

サンドウィッチマンのコント見ていた時に、気になった発言がある。

「あと、苦手なものがあれば今のうちに聞いて取り除くことが出来ますけど」

「あぁ。僕も彼女もねスキキライないんで、そこ任せますよ」

「あ。じゃあザリガニもオタマジャクシも大丈夫・・・」

「ちょっと待ってください。ちょっと待ってください・・!」

文字拘泥


上の会話は、情報伝達の観点から見てなんらオカシイ部分は見受けられない。しかしその発言に対して、オカシイと感じてしまうのはなぜか?

最初に、「苦手なものがあるかどうか」を聞いている。

答える側は、「スキキライ」が無いと答えているのだから

「ザリガニもオタマジャクシ」という言葉が出てきても、なんら不可思議なことではないのだ。と私は思う。

でもでも、なぜ「ザリガニとオタマジャクシ」という単語が出てきた瞬間に人々は「奇妙」「オカシイ」と感じて、挙句の果てに笑ってしまうのか?

社会通念


この会話から見て取れることは、「会話」は文法や単語の意味に縛られているわけではなく、

文化や歴史、背景知識に応じて

そもそも「会話」の内容が、最初からある程度「制限」されたり、「予想」されているのだと私は思った。

そうでないとしたら、先ほどの会話に違和感を抱いて、笑いを起こさせることも無い。

予測文法


言葉を使っていると、その人間には「予測文法」という能力が身につく。

例えば

「わざわざ・・・」という文字を見て、音を聞いて

「・・・ありがとうございます。」「・・・すいません。」など、後続し得る表現をある程度思い浮かべることができると思う。

しかしこの「予測文法」は「文法」だけに限らないと思う。

単語も然りということだ。

「タピオカ・・・」とくれば

「・・・ミルクティー」とか「・・・ランド」、「・・・ドリンク」と思い浮かぶかもしれないが、

「タピオカ・・・インビジブル」とか「タピオカインパクト出版会」という単語は思い浮かばないはずだ。

なぜなら、そういう言葉が生まれる環境で暮らしてはいないからだろう・・・

不可解は目に見えすぎる

よくよく考えてみると、不可解だったり、納得のいかないようなことがらは

あまりにも当たり前のモノやコトに表れている。

見えすぎて、見えていない。そういうものが、世の中には溢れすぎている。

ドイツ観念論(フィヒテ・シェリング・ヘーゲル)にはある考えがある。

認識が、外部要因によるものではなく、往々にして経験から生じることが多い、というもの。

「ザリガニやオタマジャクシ」がそもそも苦手なものどうこうという以前に食物として認識しないのは、それが食べ物で無いからではなく、それが「経験上」、私たちにとって食べ物ではなかったということだ。

だから、目に見えすぎるものはそうした「色眼鏡」でしか見えないものだ。

それ以外のものを見るには、

色眼鏡の常識を打ち破るような考えを持って、考えることが必要だと


今日も今日とて、大学生は考える。




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