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或いは観光のボタン化

観光というのは、「光を観る」という四書五経の「易経」に記されている元来の語義に近いものでもなければ、旅という追憶の道程でもない。観光は、現代の文脈で言えば、「漫遊」に近いものだと感じている。行って帰ってくる、その一周。観光に出かけて、そのまま帰ってこないということもほとんど無いし、死ぬほど苦労するわけでもない。

観光は、まさに「ボタン化」してしまっていることが既にデフォルト。鉄道の設置、道の整備、飲食店、宿泊施設、広告、インターネット、そして観光地。整えられた環境は、E.M.フォースターの「機械が止まる」という作品の世界観を思い出させる。

「機械が止まる」という作品の世界では、人間のあらゆる生活は便利であることに終始している。それが、「ボタン」という一種の装置にあらわれている。

「どこもかしこもボタンとスイッチの列だ。食料ボタン、音楽ボタン、衣料ボタン、温水ボタン〔中略〕冷水浴ボタンもある。文学供給ボタンもあった。もちろん友人と通信するボタンもあった。」(E.M.フォースター、1996、175)

あらゆるものがボタンで解決する。それは、観光においても例外ではないと思う。予約もラクラク。wi-fiにつながるのも一瞬。ご飯はコンビニで買うか、店に行って注文すれば”出てくる”。お風呂(温泉)は予め設置されているか、ボタン一つで入る(自分で火を使って沸かしことのある身近な人をワタシは知らない)。本は電子辞書を買えばいい。音楽は何かしらのサブスクリプションで済む。服もネットで買うことができる(方がいい特に2021年のコロナの時期)。誰かと話すときも、わざわざ会いに行く必要もなく、わざわざ手紙を書く必要もなく、簡易な通信ツールがあれがOK。

途中から観光の時にせんでもええやんと思うところまで書いてしまったが、日常が「ボタン化」、そして観光もまた「ボタン化」していることにも変わりないと思う。別に、良いとか悪いとかではない。ただ、作品の世界観として、他人事のように思っていた設定が、案外現代の世界の多くのところの生活環境と、大差ないというか、むしろ「機械が止まる」の世界観に近づいているとさえ思われてしまうほど、便利なのだなと感じざるを得ない。

ん?



観光が、日常生活を変わらないほど、「ボタン化」しているとなれば、観光と日常生活の違いが曖昧に見えてくる。どちらも同じくらいに、「ボタン」によって、便利を極めているように見える(完全ではないけれど)。観光が日常化しているのだなと。非日常的経験であるはずの観光が、その環境として、日常と同じような便利な環境を備えていることを人々が当たり前のように求めているかもしれないと思うと、「観光」は所詮、「イメージ」の消費、「観光している感」という雰囲気の消費と大差ないのかもしれないと思ってしまった。

観光である必要性。それがまたわからなくなっている、わけではない。これだけ観光について、曲がりなりにも書いているから、観光を行う必要性は、一応理解しているつもりだ。ただ、あまりにも観光における日常権力が強くなっているのが現代なのだなと、そう感じたのでね。




今日も大学生は惟っている。


引用文献

E・M・フォースター.1996.E.M.フォースター著作集5 天国行きの乗合馬車 短編集.(小池滋訳).みすず書房




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