日常に潜む呪いの印


いわゆる塾講がら(?)、正解の正誤を目にするのは、少ない事ではない。◯か✖。単純な判断に、生徒の解答が振り分けられていく。◯や✖に対して、あなたは何を想うか。それとも、何も思わないか。というのも、宮本常一さんの「旅と観光」という著作に、「民俗雑記 1◯と✖」というのを見つけて、「呪い」の身近さというものを、感じた気がするからで。

なぜ答えが合っていると、「◯」と描き、答が間違っていると「✖」と書くのか。あまりに当たり前のことだから、疑うことが馬鹿らしいことのように思えるかもしれないけれど、宮本常一さんの本を参考に、考えてみようかと思う。

特に十またはにちなむものをまじないにしている例は日本中にあるのです。それによってわざわいを防ごうとしたのです。そしてしかもその起源は大変古いものであり、これをアヤツコといったことが平安時代の書物にも見えています。〔中略〕アヤツコという言葉は古い日本語だと思います。アヤシイ、アヤウイ、アヤマチ、アヤカル、アヤスなどに使われる場合のアヤと同じような心持を含んでいると思います。そしてアヤツコには、わざわいなどをそらすような意味が含まれておると思います。(宮本常一、1975、167-168)

✖は、古い、或いは平安の言葉でいえば「アヤツコ」ではないかと宮本常一は述べています。なぜ、間違えたものに「✖」をつけるのか。それに仮の答えを呈するとするならば、間違いという「わざわい」を退けるためではないかと思います。答案上の答えの間違いに対してではなく、間違いや不吉なものとされるものに対して使われていた「アヤツコ」が、いつからか間違え(とされる)答えにつけられるようになったのではないでしょうか。

そして文章の最後で、宮本常一さんはこんなことを書いています。

そのような呪いの印が、いつの間にか、もとの意味が忘れ去られたまま私たちの新しい生活に取り入れられていたのです。(宮本常一、1975、168)

「アヤツコ」という呪いの印が、形式化し、意味を失ったまま潜んでいる。「◯」「✖」の「✖」は、その一例なのではないかと思います。というか、意味など忘れ去られ、形だけが残っているというのは、この例だけに限定できるものではないでしょうが。いかにも「呪い」という呪いも確かに存在するかもしれませんが(わら人形に五寸釘を打ち込むとか)、どうやら、そういったものだけに、呪いは縛られないようです。あくまで主観ですが。けど、こういう日常に意外と潜んでいる、(形骸化した?)呪いの印というか、跡があるんだなと考えると、ちょっと面白いなと感じます。

まぁこんなことを書いてきたものの、呪いはやはり身近なところにあるもの。自分が変わりなく自分であるはずだとか。運命の人がいるだろか。自分にあった仕事があるだとか。絶対にお似合いの人がいるはずだとか。変わらないことに対して、それがいつまでもあるという錯覚という呪いがあります。なんとも怖ろしいです。何か呪いあって、自分の周りにそういうものがないという二項対立や思いこみに浸るのは、ちょっと危ないのではと思います。言うまでもないほど有名な鴨長明の方丈記には、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」といったものがあります。無常観で知られる彼の考えは、何ものの変化せずにはいられないということを教えてくれます。

変化するということに対して、拒絶反応を示しつつあるのが、現代人なのだと思います。(いろいろとオカシイ時代ってことは、他の要素からも分るけど。)メルロポンティは、「人間の本性は、本性がないこと」と言ったとどこかで学んだ気がします。人間なんて・・・という口調は、如何にも厨二病や高二病のそれに聞こえるかもしれないけど、にしても人間なんて、バナナと五六割遺伝子一緒のバナナやろうで、ほぼ水で、中身空っぽのくせに、本当の自分がいあるはずだなんて口走る矛盾そのものでしかないのだと思いますね。あぁ、またバナナがまたなんか言ってますよ。

どこかでね、妙に記憶にのこる英文を見たようなきがします。確か、「If the world knew how human has lived, it would thought of us as those who have been mad though harmless.」みたいな感じだったんような。こういう文章をどこかで、見たような気がしました。これ勝手に解釈すると、「世界というものが意思を持った何かで、人間の生きてきた姿をずっと見ていたなら、その生き様が害があるわけではないにせよ、狂気以外のなにものでないと案ずることだろう」かなと。じゃあどういう生き方が狂気じみているものかというと、おそらく、近代以降の人間かなとも思ったけど、人間自体の本性がないことから由来する、ある意味での際限ない欲望だとか、信仰だとか、地球のあらゆる環境に適応してでも生きようとするゴキブリ以上の図太さみたいなものを、「mad」というか、「insane」だと、世界は思うのかもしれないと考え及びました。

世界なんて最初から狂ってるって、まるで新海誠さんの作品の登場人物がいいそうなことかもしれませんが、特に近代以降は、それが顕著な気がしなくもないです。いや、近代以降は狂っていて、それ以前は狂っていないとする二項対立に溺れているワタシも、狂っているのだろうか。自分が狂っていると思っていない人間こそ、もっとも狂気的なのだ・・・なんて、迷言以外なにものでもないですね。

前半と後半で随分と文章の雰囲気が違うかもしれないけれど、なんとなく書きたくなってしまったので、ご容赦願う。「呪い」というと、いたく怖ろしいものとか、目に見えるものだけを思い浮かべがちだけど、そういうのはおそらく大抵、非常に狭い囚われ方をしています。自分の意識していない部分にある呪い、呪いだとおもってすらいない呪いが、案外一番怖かったりするのかもしれない。そういうのって、作品とかの展開でも、驚きやすいでしょ?なんだか思っていた到着点と違う気がするけど、まぁいいや。






今日も大学生は惟っている


引用文献

宮本常一.1975.宮本常一著作集18 旅と観光.未来社




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