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観光の功罪

最近は「アドベンチャーツーリズム」なるものが、注目されつつあるようです。いわゆる富裕層向けのツーリズムらしく、市場の見込みも大きく、そこから得られる収益も多いという見込みだとか。「アドベンチャー」という危険がたくさんあるような未知の行程や道のりが、ビジネスの一つとして考えられるとは、本当にどこまでも商品化する社会なのだなと感じます。

何かをするとなった時(本当にあらゆる分野において)、今の人間は必ず何かの商品を意識すると思います。一から何か考えたり、つくったりするわけではあく、予め用意されてものを、まるでそれが未知のものであるかのように楽しむ。それが、誰かによって作られたということを、忘れているかのようにです。ワタシごとですが、ワタシはアスレチックが好きです。運動は下手でも、色んな遊具が乱立し、色んな形で、普段使わない形で体を動かすことが、結構すきなのです。(偏見ですが)大学生の遊びといえば、お洒落(?)な服を着たり、お洒落な店に行ったり、大人みたいにちょっと背伸びして、高い店に行ってみたり、それっぽい服や装飾品や靴を買ってみたりするかもしれませんが、ワタシはよくわからないので、公園なりアスレチックなりにいって、小学生のように、身体が悲鳴を上げるくらいにはしゃいでいる方がどうにも好きなのです(最近は行けていませんが)。

しかしアスレチックや公園と言っても、それらはわざわざ誰かが造ってくれたものです。誰かが造ったものに、許可をわざわざ得なければ、思いっきり体を動かすことすら難しいのではないかと感じます。なら自然のある場所にいけばいいかもしれませんが、この世の中土地というのは、人間の「所有物」になっています。あんたが作ったわけでもないのに。ある意味で、人間が鬱陶しくもあります。だから、だれの所有物でもない空想に浸ることが多いのかもしれません。

さて話を戻して、観光は現代では極度にあらゆるものをパッケージ化・ビジネス化することに寄与しているのではないかと思います(世界そのものの商品化でしょうか)。客を呼び、収益を獲得し、名利名聞を得て、保全に活かし、持続可能なビジネスを可能にする。わざわざビジネス化しなくてもいいのではと感じることも、ないわけではありません。「だれのための仕事」という鷲田清一さんの著書に、現代のビジネスの一旦を表すような文章があります。

〈インダストリー〉という観念による縛りからじぶんをゆるめるという、人々の志向それじたいをふたたび企業が先まわりして、ビジネス化しようとする。休暇や遊び時間までさまざまなパッケージ商品として提供されるなかで、人びとはますます「真空恐怖」に陥っていくわけで、そこでトレンド・ゲームから自由になろうとする。そしてまたそれ用のサービスが提案される。そういういたちごっこが、わたしたちのまわりでくりかえさえるのだ。(鷲田清一、2011、72)

観光には、本当にいろいろなものがあります。今思いつくものでも、グリーンツーリズム、ブルーツーリズム、産業観光、ダークツーリズム(ピースツーリズム)、ONSENガストロノミーツーリズム、宙ツーリズム、アドベンチャーツーリズム、医療ツーリズム、スポーツツーリズム、バーチャルツーリズム(リモートツアー)、アニメツーリズム、コンテンツツーリズム、忍者ツーリズム。他にもまだまだ。他のあらゆる商品もそうですが、観光もまた、今存在するトレンド、これから現れ得るトレンドに対応するようなものを作り出しているものなのではないでしょうか。

労働の対比としての、休暇(休み)は、休むためのもの(vacant/vacance)でもあるはずなのですが、むしろ「recreation」的要素がますます強くなっているのではないでしょうか。「recreation」とは、つまり再生産、労働力の再生産です。「recreation」的休暇(休み)は、結局「労働」のためのもの。またそれだけではなく、休暇(休み)そのものが、ビジネス・商売の対象となっているというわけです。ある意味、どこまでいっても「労働」「生産」「商品」「サービス」というものから逃げることが出来ないような状況だとも言えるのではないでしょうか。

各々が好きな事を”する”。みんなが”表現”者。クリエイター。AISASモデルで想定されている情報や商品の評価を発信・拡散”する”消費者。オリンピックのボランティア。どこへいっても、「すること」だらけ。前述の言葉は、耳障りはいいかもしれませんが、いつ何時も、「なにかしている」という状況から抜け出せないということを、表しているのではとも思います。例えば、大学生とか。学業。ボランティア。就活。塾。予備校。プロジェクト。部活。サークル。インターン。留学。バイト。就労。旅。遊び全般。こういうことばかりで予定が埋まっていることが、なんだか素敵なことに思えませんか?それはある意味で、常に何かをしている(なにもしないということが無い)状況を無条件に良いことだとみなしているのではないでしょうか。引用文にあった、「真空恐怖」という言葉は、何かをしてないと不安・怖いという一種の病理だと思います。何もしないことは、ちっとも悪いことではないのに。

その「真空恐怖」をあおるように、ビジネス全般、特に観光はあらゆる人の好み、或いはトレンドに合うようなサービス・コンテンツを作り出し、人間を常に何かしている(経験、体験、消費、評価、検索、制作)状態にしているともいえるのでないではないしょうか。しかしそれは、健康にいいのでしょうか。その先になにがあるのでしょうか。それは幸福なことでしょうか。或いは極端なことを言えば、これから生まれ(させられ)てくる子どもは、そういう環境で幸せに生きられるのでしょうか。という疑問がわいてきます。もちろん、十把一絡げな評価を下すことは出来ません。でもなんとなく、今の社会は、色々ないておいて、「なにかをしている」状態を強制している、或いは保ってるように見えるのです。便利なものが増えたのに、人間はますます時間を減らしているように見えてしまうのは、気のせいでしょうか。「ニューツーリズム」なんて、名前が”新しい”観光が出てきましたが、それが人間の時間を「すること」で埋め尽くし、生き急がせることがないようにと思っています。

えぇ人間は醜いし、中途半端に狂っているし、薄汚いですが、ワタシは幸か不幸か人間です。なら、ちょっとでも人間が苦しまないような社会を望んだって、別に構わないではありませんか。と、観光を勉強していて惟う今日この頃です。



大学生は惟っている



引用文献

鷲田清一.2011.だれのための仕事 労働vs余暇を超えて.講談社学術文庫

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