見出し画像

げぇらぉぶ・ひょうか

「定量的評価と定性的評価ですか」と。塾のバイトをしていて、こんな言葉を使うことになるとは思わなんだ。けど効率と、情報伝達の正確性を高めるためには、たしかにそういうことかも必要しれないのだなと。

日本の多くの子どもたちは、数字による評価に晒されるのだろう。何点をとったのか。通知表の評価は五段階中何だったのか。五教科で合計何点か。50メートル走は何秒か(これは関係ないかもしれない)。塾で年下の子に教えていると、そういうことを無視することは出来ない。

計画は何日までに終わらせるか。テストで目標は何点にするか。反省をする時の、目標とのギャップはどれくらいか。数字に注目しなければならないことは、いうまでもない。そういう時に、ちょっとだけ伺える逸脱の瞬間がある。それは直接教えている時だったり、耳に入ってきたり。数字や、いわゆる「勉強」から離れる瞬間の、あの姿が、実は生徒の本来の姿なんじゃないかと思ったりする。

こんなアニメが好きで、こんなマンガが好きで。こんな部活に入っていて。学校ではこんなことが流行っていて。体育祭や文化祭があって。そういう評価の外側にあることに少しでも触れると、彼ら彼女らは、とても雄弁になる傾向がある。「現在完了形」がなんだ、「1gの水の温度を一度あげるのに」がなんだ、「天平文化」がなんだ、「円周角の定理の逆」がなんだ、「句切れ」がなんだ。そこでうーんと唸っていると思えば、趣味(?)や好きなものになると、人が変わったように語ってくれる。

学校の先生は大変な職業だと思う。生徒や児童を、数字という枠組みにはめなければばらない一方で、数字ではとらえきれないほどの彼らの魅力や悪い所と向き合っているだろうから。あの、先生の雰囲気の違いを知っているだろうか。授業だったり、廊下で会った時だったり、イベントをしている時だったり、そういう時の雰囲気とは異なった、(今やっと言語化できるが)「こちらを評価する」目を持つ時の先生。ワタシは、あのいつもとは違う先生の雰囲気のようなものがニガテだ。「数字」や「評価」という見えない壁一枚隔てて、こちらを見ているような気がしていたのだろうか。この「自分」という存在が、歪曲していくような違和感というのだろうか。

塾で教えるというのは、生徒を必然的に、「定量的」に、或いは「定性的」に評価、或いはそのどちらもで評価することも含んでいるのだろう。これは、ワタシが生徒の頃に感じ得ていたあの気持ち悪い違和感をそのまま体現している姿だ。テストで何点とれるか。入試で何点とれるか。それだけだ。だから、もちろん学校の先生に対してほど、評価外のところを見る機会は少ない。だから、評価外の表情や語り口に出会うと、少しワクワクできる。数字という言語で、箇条書きで書いた情報でとらえ切れないものが、確かにある。

ものを渡してくれる時に、両手を添えてくれる丁寧さがある。落ちたものを拾えば、「有難う」と言ってくれるし、こんにちはと口にすれば、「こんにちは」と返してくれる。分からないことがあった時に、考えてみようかと言えば、すぐ「分からない」と言わずに、考えてくれる。教えている時(いや正確には一緒に考えていると言った方がいいか)には、こちらに向いてくれる。帰りには、「ありがとうございました」と(大学生でも教授や講師にしない時があること)言ってくれる。ミスをしたときや、計画が遅れた時は、すぐに代替案を出してくれる。帰りに、消しゴムの塵をゴミ箱に捨てていく。(多分もっとあるね。)

しっかりしていると思う(敢えて”しっかり”という曖昧な表現で書く)。学校の先生、いや彼らに限らず、人と直接かかわることにおいては、数字やただの箇条書きの情報に囚われない態度、或いはそういうものに囚われない魅力とか、力とか、力能とか、悪い所、オーラのようなものを感じとる能力が必要なのではないかと思う。生徒のことを記録する時に、そう思う。ワタシは、この生徒のことを、非常に分かり易い伝達可能な情報へと変換している(不可塑?)。その生徒は、その生徒だが、その情報は、必然的にその生徒のことではない。それは、ただの情報だ。一介のバイトは、生徒を情報として捉えること以上に、することなんてないかもしれないけれど、人間を人間そのものとして感じる部分は残しておきたいというか、数字や統計や理論が支配しつつあるこの世界で、「ノイズ(ノイズという表現は適切では無いが)」を認識する能力は、育んでおきたい。

別に、先生とか、あと医者とか、カウンセラーとか、そういうのに成りたいわけではないけれど、人間という不可解な生物を、或いは自然そのもの、生きているものを情報や数字や統計という搾りかすみたいなもの”だけ”で判断したくはないと思っただけだろう(そういうのももちろん大事だけど)。溢れてるね、数字や記号。成績、年齢、指の数、年収、点数、資格の数、歩いた数、行ったことのある国、飲めるアルコールの度数、財布に入っているお金、スマホのストレージ容量、過去の栄光の数、家族の人数、読んだ本の数。それをすべて取り払って、「何も無い」とは思わないような感覚が、ワタシには十分にない。

その人自身を、その個人を、もっと、細かいところまで、気づかないところまで、目には見えないところまで。言葉や、数字という暴力(Evaluation)に侵されていない領域(outside)を。少なくとも、数字とか定量的な要素よりも、そういうものの方が、その人の個性に近い気がする。目に見える(数値化できる)ものばかりが、「個性」なのかというアンチテーゼが浮かんできた。




今日も大学生は惟っている




🔵メインブログ🔵



関連記事


サポートするお金があるのなら、本当に必要としている人に贈ってくだせぇ。