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したいことなんて、あんのかい

先に意味や適合を求めすぎてるのかもしれない。

ということを思うようになった。自分には適性があって、それにつけば上手くいくとか、幸せになるとか。適職診断って今考えてみると、何の意味もないとさえ思えてしまう。ただのネットの診断に、適職がきめられてたまるか。なら一層、「適職」など絶対に存在しないという極論から初めてみよう。これで、相当数の「適職」云々に関するものは、ここで意味がなくなった。

適職などないのだから、もちろんどんな職に就こうがかまわない。というか、職を自由に探すことができるからか。「適職」など絶対に存在しないという極論の効力は、「こんなはずじゃなかった」という思い込みを無効化できることだ。自分に当てはまるものなんてどこにもないのだから、どこに当てはまらなくても全くもって問題はない。だけど、生きるためには、金は必要なので、何かをしなければならないことには違いないから、自分がなんかイケるみたいなものを探さなければいけないのだろう。

「適職」と同様に、「したいこと」があるはずだというのも意味不明である。
自由にしろ、好きな事をしろ。そんなことを言われた瞬間に、何もしたく無くなるのは、「したいこと」は「しろ」と言われてするものではなく、恐らくは「熱にうかされている」状態で、無我夢中で、没我状態でするものだからだろう。「したいこと」が無いからって、それは悪いことじゃない。あるからといって、偉いわけでもない。
ただ、「したいこと」の裏に、「しなければ」という生産論理に裏打ちされた焦りがあるなら、そんな「したいこと」など、棄ててしまったほうがいいんのではないか。金でも稼ぐか、寝ていた方が良いくらいに思える。

「したいこと」というのは、ある種の呪い的な意味付けだ。「したいこと」があるんですよね? と押し付けてくるから、その呪いに巻き込まれないように、自分もその呪いを飲み込み、呪いのようになる。ないものを、あるように演じる。パントマイムだったら面白いけど、それ以外だとなかなか一笑に付すことは難しい。「したいこと」は純粋に「したいこと」だから、「したいこと」なのだ。どこかで「しなければ」「周りがしたいことを持っているから」という思惑があるなら、それは純粋な「したいこと」ではない。

そもそも人間は、「したいこと」という有意志的な存在として生まれてきたのではない。勝手に作られて、生れさせられるのだから。受動性の極みだ。変に能動的になるよりも、そのまま受動的でいるほうが、性に合っているのかもしれないとも考えたが、それはちょっと違う気がした。「したいこと」は、まぁあったらあったでいいんじゃないくらいのスタンスで構わないと思う。そんなに「したいこと」が必要なら、貴方には生まれたときから「したいこと」があったのかと訊いてやればいい。「したいこと」は、強制されてはいけない。気づいたらそこにあって、睡眠も食事も、周りの人間もどうでもよくなるくらいに、狂気的且つ魅力的に心揺さぶられるものであるほうが、ワタシはいいと思う。本当の「したいこと」はおそらく「してしまうこと」ではないかと思う。意識的ではなく、半分意識的。

”したいこと”なんて、有(在)んのかい





今日も大学生は惟っている



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