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We can no more leave our biosphere than the cells of our bodies can leave us.

英検の対策をしている時に、「biosphere」という文章を読んだ。

人間の生活圏の薄さと、人間という生物の肉体の脆弱さを語っている文章だった。

そうだ。

人間は個体としてとてつもなく弱い。水を三日ほど飲まなければ瀕死状態になり得るし、体温が44度近くなろうものなら、死ぬ。エベレストより高い位置に行こうとすれば、四肢は爆散する。少し海に潜ろうもんなら、身体はぐしゃぐしゃに押しつぶされる。少し自然に放り出てみろ、あんたも私もすぐ肉塊になるぞ~。

人間が、いやこの人間社会がグローバル化する根底に(あるかもしれない)ものが分かった気がする。

人間はとてつもなく弱い。儚い。

それは、地球規模で、もしくはそれ以上の規模で、あらゆる環境を同質化・均質化させなければ生きていくことが出来ないからではないか?

インターネットによる同時即時通信も、民主主義も、国際機関も、時間の同化も、時差の設定も、グレゴリオ暦の採用も、youtubeも、オリンピックも、

それらは「同質」であることを目指している動き

深すぎる海にも、高すぎる空にも、人間は己の力だけではたどりつくことが不可能。仰々しい機械を伴わなければ、とても活動できたものじゃない。

上もダメ。下もダメ。


そこで、人間は横へ、横へと移動したのではないだろうか?

横へ、横へという動きは何時しか、「同質性」を強いる動きに変化し、民主主義へとたどり着く。

どうやらその横の動きの系譜は、日本がうまく受け継いでいるようだが・・・。


地球上のあらゆる場所が、グローバル化をこうむることになろうもんなら、それはおそらく完全な人間の「薄い生物圏」の完成だろう。


どこへ行こうとも同じ。生きていくだけの種としては、完全な存在。そう生きていくだけならな。

人間には、幸か不幸か、人間の身体に構造からだけでは完全に解き明かすことの出来ない魂のようなものがある。

ただ生物として生きていくのに、人間という生物の身体だけではなく、精神のようなものが伴うことによって、人間という生物は甚だしい生きるのが「難しい」。

正確には、単調的に生きることはできるが、この身体の生物的ではないような部分がそれを否定してくる。

ポストモダンのこの時代、物質的な充足だけでは、もの足りなさを覚え、より自己を高めるようになり精神的充足を希求する今の私たちの状態がまさに前述の証左である。


細胞が私たちの身体を去ることがないように、我われもこの星から逃れることができない。

さらに、この意識・魂のようなものも、この身体を去ることができないようで。

私たちが、たとえそれが人工的に作られたものであったとしても、旅行をしたがるのは魂がこの身体を出ることが出来ないだからだろうか。

世界を均質化しようとしているのは、我々が生き残るためではなく、

この地球にも、

我々人間がこの星から出ていくことができないように、この魂のようなものがこの身体から出ていくことが出来ないように、

この地球が、我々「人間から」出ていくこと・逃げることが出来ないことを知らしめようとしているからではないかと、不図思ってしまった。

そうだ。

地球は人間から逃れることが出来ない。

そこに燃ゆるは、見落としがちな(いやもしかしたら大きすぎて見えていなかったような)生と生との対立。

人間という生と、地球という生物の対立。


宇宙船地球号・・・ほほう、なにそれおいしいの


よくもさんざん地球を食い物してくれたな・・!

そっちこそ、バンバン自浄作用かなんか知らんが、自然災害ばっか起こしやがって・・・!(あ、気候変動はいったん無視)住みにくいったらありゃしない。




We can no more leave our biosphere than the cells of our bodies can leave us and our souls can leave us.-(地球と人間は、案外、仲が悪いのやもしれない)


今日も大学生は惟っている。



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