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ニーチェが私を驚破して空いた穴、それの正体。:ヨルシカ「ヒッチコック」

ヨルシカの「ヒッチコック」という曲に、このような一節がある。

「ニーチェもフロイトもこの穴の埋め方は書かないんだ。」

この曲を聴いたときから、ずっと引っかかっていた一節だ。

ニーチェもフロイトも、とあるから当然彼らの思想や書籍や、価値観に関するものであろうとは思っていたが、最近になって、その「穴」ってなんだろうと疑問に思った。まぁ、この記事はヨルシカさんの注釈というわけだ。

さて

ニーチェとフロイトが、穴の埋め方を書かないということは、ニーチェとフロイトの思想には、その穴の埋め方がなかったというわけである。思うに、ニーチェとフロイトは、「穴」をあけてしまったが、その「穴」という困難を乗り越えることはなかったということだろう。

つまり、ニーチェとフロイトは、画期的な原理を生み出すことはなかったということだ。

フロイトについても書きたいが、残念ながらあまり詳しくはないので、今回はニーチェに関連させて書いていこうと思う。

一度でもニーチェの書籍を読んだことがあるかた、もしくはニーチェについての文章を読んだことがある人なら、この「穴」がどういったものかをより理解することができるかもしれない。

タイトルにも、「ニーチェが私を驚破して空いた穴」とあるが、まさしくこれは、「ニーチェもフロイトもこの穴の埋め方は書かないんだ。」の「穴」であると私は思っている。

この「穴」は、「真理」という存在の不可能性である、と私は思っている。

どこかこの世界には、いずれ僕らが到達できる真理や真実のようなものがあって、それが僕らを救ってくれるという思い。しかしながらこの世には、客観的な真理というものは存在するはずがなく、それどころか人間は信念対立を引き起こしてばかりで、向かうべきたった一つの道などあったもんじゃない。

この背景にある感情や思惑は、とても複雑すぎて、言語化が難しい。これもおそらく、偉人と呼ばれる人物が埋められるわけがない「穴」の原因なのかもしれない。

さて

私はようやく、この「穴」について少しではあるが知ることができた。では、この穴の埋め方にたどり着けるかと言えば、それは永遠にNOだ。穴は真理の不可能性であり、真理そのものである。穴が開いているということが、真理は存在しないということを表している。

だからこの「穴」に対して出来ることは、それは真理によって埋めることがないけれども、別のものによってある程度埋めることができる「穴」であると信じることだ。

『現象学は〈思考〉の原理である』という文献において、竹田青嗣さんは、真理に関して、このように述べている。

ヨーロッパ近代哲学は総じて哲学の中心問題を、世界の正しい「認識」および道徳的価値の称揚という二つの問題として解釈してきた、しかしこれらはじつは一つの世界解釈、キリスト教的人間解釈に依存するルサンチマン的な世界解釈にすぎなかった。われわれがそれを意識した以上、いまや問題、真なる「認識」ではなく、「価値」の本質を探究し、人間に生の力を与える新しい「価値」をうち立てることである‥‥‥。(竹田青嗣、2003、187)

この文章からわかることもやはり、真の事実や真理が、雲散霧消してしまっているということだろう。そして私が先ほど書いた、「別のものによってある程度埋めることができる」の材料は、「価値」であろう。

ニーチェは、生を称揚させるような価値を見いだすべきだと、「力への意志」を通して表現したのだと思う。しかし明確にどのようにすべきかにはたどり着いていなかったので、

「ニーチェもフロイトもこの穴の埋め方は書かないんだ。」

という歌詞になっているのだとは思うのだけれど・・・。


では、どのようにこの「穴」を埋めればよいのか?それについてはまた別の記事で。




今日も大学生は惟っている。




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