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uncompoundableって言った方がいいか

サステイナブルと、大学に入学してから、よく聞く。専攻も関係しているのだろうが、にしても耳にタコが出来るくらい、たくさん聞いた。

サステイナブルは、いわば、大量消費・大量生産社会の反省として現れた、持続可能、接続可能な社会を目指す在り方を形容する時に、よ~く使われる。つまりは、「たくさん使いすぎたから、節約しましょうね」ということだろう。そのしわ寄せが、何故かこの時代にあるのだ。

サステイナブル、持続可能とは云うものの、それはただのきれいごと。「sustainable」とは云うものの、私には(直観で)「uncompoundable」(勝手に作った言葉)といっているように見える。

つまり、これ以上悪化しないように、ということではないか。不思議だ。つまりは、世ではあたりまえだ。都合の悪いもの、聞き心地の悪いもの、聞こえの悪いものは、隠される。嘘はついていないかもしれないが、ある意味では嘘をついていることと同じくらいに不誠実なことかもしれない。

目標は、なるべく、聞こえのよいものの方がいいのだろう。そっちの方が都合がよいのだから。しかし、「サステイナブル」という言葉は、何も「現代」に出てこなくてもよかったのでないか。これはまことに勝手だが、あらゆる物事が引き起こすかもしれないこと(好都合なこと、不都合なこと)を予測して、もっと行動してくれていれば、「uncompoundable」が見え隠れするような、「sustainable」なんて聞くこともなかった。

もう、なんとなく、なにもかも、遅い。

その中で、やってくしかない。バチバチに縛られた状況で、頑張ろうとするなんて、流石はマゾヒズムが大好きな人間であることよ。(このネタは、「勉強の哲学 来たるべきバカのために」から)

希望は、少しだけ。期待はしない。

期待するということは、つまりは「認識論的誤謬」に、「暴力」を溶かして飲むようなものだ。(そんな溶液飲みたくもないし、呑まれたくもない。)

持続可能を目指すのは、それ以上、「悪化させてはならない」からだ。(まだ見ぬ子孫のためとは、なんとも健気な事か。)

以前書いた記事の繰り返しになるけど、今生きている私たちは、「赤い羊」なのだ。(意味は考えてくれ)

赤い羊。少し容貌がいつもと、違う、普通に見える、ただの赤い羊。赤いだけの羊は、生きているだけで、超時間的なことをやってのける。「サステイナブル」など、クソくらえというかのように。

認めよう。

サステイナブルなどと、表面的で「期待」をするような表現ではなく、「uncompoundable」という、内省を込めた言葉を。



今日も大学生は惟っている。


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p.s.

この文章を書いた後に、『理性という狂気 G・バタイユから現代世界の倫理へ』という石川学さんが書いた本を読んだ。なんとなくだが、この記事の文章と、通ずるものがあったので、(多分紹介しないかもしれないが)、紹介文的なものと、共通している考えから色々派生させて書くかもしれんね。


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