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アイツが「バイキンマン」だ

ワタシたちは、アイツを見れば「バイキンマン」だといいます。拳でぶっ飛ばして、聞こえてくるは「ハヒフヘホ」。ワタシたちは、その光景に慣れ、疑うことをついつい放棄してしまうことも少なくないでしょう。なぜ彼が「バイキンマン」なのでしょう。彼がバイキンマンそのものであるということよりも、彼が「バイキンマン」であることによって、ワタシたち側が「バイキンマンではない」存在という非対称性に酔いしれていることも、あり得るのではないでしょうか。

排除、排斥、呪い、思想的殺人といえばいいのでしょうか。自分にとっての都合の悪いと少しでも感じたものを、異質な者とし、自分こそが異質でないとする。その相対的な区分でもって、「異質でない」という場所に安住を求む。無きにしも非ずという感じでしょうか。

ワタシのなかの老人がこういいます。

「あそこに、異質な者とされているものがおるじゃろ。そしてその周りに、異質な者を排除する者がいる。そして、異質な者を排除しない者もいる。正確には、排除をしない者は、その者が”異質”であると、そもそも気づいていないのじゃ。だから”排除しない者”という表現は適しておらん。彼らはただ、その者とただあるだけさ。困っていれば助ける。何か訊かれれば答える。それだけ。異質な者を排除するものは、彼らが異質であるから、それだけで助けることを放棄するばかりか、助けるというその憐れみさえも疑問視し始めるのだよ。」

同じものである、と。本来は、同じものであるはずなのに、敢えて境界線を設けることによって、何かしらの安心感を得ようとする。ワタシは、それを異常だとも思いません。悪いとも、良いとも思いません。また、「同じものであるはず」というのも、違うでしょう。違っているのがあたりまえ。同じである方が、よっぽど珍しいではありませんか? しかしどこかで、何かと同じで、何かと違うという、言語の恣意性といいますか、そういうある意味では自分勝手な境界線を、人間は設けたがるのではと思うのです。自分という変わらない(はずの)もの(?)が、そうであり続けるために。ワタシは、そんなもの知りませんが。

マーサ・C・ヌスバウムの「経済成長がすべてか?」という著書にある、ポール・ロジン(Paul Rozin)と、ジョナサン・ハイド(Jonathan Haidt)の実験結果と思われる文章に、こんなものがあります。

私たちががけがらわしいと嫌悪して拒絶するものー排泄物、その他の体の老廃物、そして死体ーは、私たち自身の動物性と死の運命の証であり、〔中略〕こうした老廃物と距離を取ることで、私たちは自分が老廃物を生成するという事実、そして究極的には死ぬ運命にある動物であるという点で、私たち自身が老廃物だという事実から来る不安をコントロールしているのだと、嫌悪感について研究している実験心理学者たちは考えています。(マーサ・C・ヌスバウム、2013、42-43)

私たち自身は、毎日のように、老廃物、排泄物を生み出します。そうしなければ生きられない身体になっている、ということも関係していますが。しかしそういうものを、汚い、見苦しい、目にしたくないということで、明らかな嫌悪感を示す人も少なくはないのでしょう。特に、「清潔」な環境に慣れている人間には。かくいう私も、小さなころに福島県の、どこか遠い親戚だかよく分からない家に行ったことがあります。そこはいわゆる”ぼっとん便所”しか無い場所で、「これが・・・トイレか?」と、子どもながらにそれは迫真の表情で驚いたことを想い出します(正確には、「トイレ(toilet)と、便所は、同じ意味ではありませんがね笑)。

しかし、生み出しているのは、言わずもがなこの身体です。前意識的な部分で、この身体が生きるために(「働く細胞」のように)。しかしながら、自分自身が、老廃物でないと、どうして言い切ることが出来るのでしょう。いずれ死ぬ。今この生きている状態は、偶然にもホメオスタシスが上手に機能しているだけ。引用した実験の内容を見た瞬間、ワタシは所詮、「老廃物」でしかないのだと、どこかで思いました。老廃物、排泄物を嫌悪する。これは、自分こそが、老廃物に他ならないということを、認めたくないがため。老廃物と比較し、距離を置き、どこか遠いとこの、他人ごとのように思いたいのは、それが原因なのではないかと。

また「自分の周りを笑うことは自分自身を笑うこと?」という記事に、こんな文章があったことを想い出す。

そういえばこんな話を聞いたことがある。ダニエル・デフォーが描くロビンソン譚に登場する奴隷商人や海賊は、ヨーロッパ人とは全く異なる者ではなく、むしろヨーロッパ人の(抑圧されたような)、汚い(?)、苛烈な競争社会で人々を貶めるような姿が、他者(敵)として描き出された者であると。

否定。排除。排斥。嫌悪。そういう対象というのは、完全なる他者ではなく、むしろその排除を行う者自身の姿を表しているのではないか。「バイキンマン」も。老廃物も。排泄物も。汚らしいと言われる者の多くが、自分が実はそうであるという事実から逃れるための、一種の現実逃避、ねじれた客体化だとしたら、これ以上オカシナことはないのではと。

異質なもの。純粋な者。そういう区別どうこうの前に、なぜそのような区別が生まれるのか。そういうことを、ワタシはあまりよく考えてはこなかったでしょうか。そういう歪曲した区分に浸っているほうが、安心感を得られるかもしれないからね。包摂と排除の、包摂の側にいつまでもいたい。人間だけの世界で、”人間世界だけ”のここで。けども、それじゃあ本当の意味で、ふとんで気持ちよく寝れないかもしれない。




今日も大学生は惟っている


引用文献

マーサ・C・ヌスバウム.2013.経済成長がすべてか?(小沢自然,小野正嗣訳).岩波書店



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